世界をさすらったフットボーラーの軌跡<前編>=元日本代表 広山望インタビュー

元川悦子

日本サッカーの位置づけは欧州よりも米国に近い

2シーズンに渡り米国独立リーグのリッチモンド・キッカーズでプレーした広山(左)。米国に渡ったことで学ぶことは多かったと語った 【Getty Images】

――独立リーグの選手は収入的にやはり厳しい状況なんですか?

 収入はそう多くないけど、リーグ運営自体はJ2と変わらないくらいしっかりしていますよ。ただ、J2だと選手は収入が少なくてもほかの仕事はできないけど、独立リーグはそのあたりが柔軟で合理的なんです。

 リッチモンドの場合、練習が朝8時〜9時半ごろまでなんで、コーチをやっている人は夕方4時から子供を何百人も教えているし、幼稚園に派遣されている人もいる。トップチームの営業収入は貧弱ではあるけど、クラブ組織はすごく安定してますし、選手たちも違った形で報酬をもらえる。そういうスタイルは南米や欧州とは全然違いますよね。

 日本サッカーの位置づけって、欧州や南米より米国に近いと思うんです。クラブライセンス制の導入もあり、これからはクラブが独自で経営の工夫をしないと難しいところが多いんじゃないかな。そう考えたら、選手がプレーしながら下部組織で指導するとか、スクールを週2回見るとか、そういう形で報酬をもらう仕組みがあってもいい。人気選手がスクールで教えてくれるなら通わせる親もいるだろうし、選手の方も親と話したりしてコミュニケーション力も上がる。そういう経験からか、米国の同僚たちは大学を出たばかりでもすごくしっかりしてましたからね。

――広山さんも指導したんですか?

 僕は家族との生活を優先したかったし、せっかく米国に2年住めるので、基本的にはやりませんでした。でも1年目のシーズンが終わった後、約1カ月残って、無給で勉強のためにU−12〜18のカテゴリーでアシスタントコーチをさせてもらいました。リッチモンドの育成チームはかなり優秀で、米国の世代別代表に入ってる選手もいました。指導法に関しては日本もレベルが高いし、目を見張るようなことはなかったですけど、やっぱり女子の選手層の厚さはすごい。あれだけ人数がいれば、ワンバック(米国女子代表)のような能力が高い子が出てくる可能性が高いですよね。

海外に行くことで確認できる可能性もある

――それ以外に刺激を受けたことは?

 リッチモンドは育成・普及がメインだから、トップチームの興業も完全に割り切って子どもをターゲットにしていました。日本や欧州の人から見たら「こんなのサッカーの試合じゃない」って言うかもしれないけど、子ども向けにマスコットを投げたり、スタジアムに遊具が置いてあったりと、家族連れがリピーターになるような工夫をしてました。

 試合日程もすごく効率性重視。FIFA(国際サッカー連盟)管轄のリーグじゃないから、アウエーの連戦があったりね。最大4日間で3試合をこなしました。選手のコンディションよりも、クラブの利益をどう上げるかを最優先に考えるから、そういう形になるんです。2日連続で試合するなんてバカげてると最初は思ったけど、僕自身、35歳で2連戦やってもプロのパフォーマンスを維持できる手ごたえは得られた。監督もどう連戦を乗り切るかを考えてチームを編成する。4−4−2のサイドバックと中盤4枚を2試合で入れ替えたこともあったくらいです(笑)。

 規約も柔軟で、MLSから選手が週末だけ1試合限定で来たことも何度かありました。そういう割り切った合理性と経営手法は米国らしいところ。すごく学びました。

――独立リーグのレベルはどうでしたか?

 チームによってまちまちですけど、個人能力はかなり高いのに戦術的には未熟とか、バラつきがありますね。J2の方が面白いサッカーをしてると思うけど、強いところと試合したら、J2中位以上とか優勝できるようなチームもあります。ただ、独立リーグなんで、本気でMLSに入りたいオーナーのクラブは上を狙うし、選手も次々とステップアップしていく。リーグ全体のレベルを上げることが最大の目標ではないですね。

――広山さん自身のパフォーマンスは?

 僕はだいたい10番のところをやりました。サイドもボランチもやったし、選手としては満足できる2シーズンでしたね。2季続けて30試合近くできたし、ゴールもそれぞれ1点ずつ取れた。特に2年目は引退すると決めて臨んだシーズンでしたけど、選手をやりきったと思えました。現役最後のゲーム(8月25日のウィルミントン・ハンマーヘッズ戦、2−3で敗戦)はホームだったし、家族の前で戦えたのもうれしかったですね。

 Jで戦力外になった時、「これが自分の評価のすべてなのか」という疑問や不完全燃焼感をぬぐいきれないところがあった。でも、選手は監督や環境次第でまた別の可能性があるはず。それを再確認したかったのも、米国に行こうと思った1つのきっかけでした。

 1年目が終わった時『ここにきてよかった』とすごく感じたし、大きな手ごたえをつかめた。だからこそ、あと1年でやめてもいいと思えたんです。自分自身を再評価できたし、サッカーに対してもう1回オープンな考えを持てたのはすごく大きいですね。そういうチャレンジの場を与えてくれた方々に本当に感謝してまし、実際に行ってよかったと強く思っています。

<後編へ続く>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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