大きな夢に向かって踏み出した第一歩=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第3回
1992年11月23日 国立競技場で行われた1992Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝(ヴェルディ川崎vs.清水エスパルス)は、56,000人の大観衆の中で行われた 【写真:アフロスポーツ】
Jリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場で2012年3月までリーグ運営に当たってきた佐々木一樹さんに聞く「Jリーグ20年の裏面史」第3回は、嵐のような騒ぎのなかでたどり着いたJリーグ開幕までの裏話をお届けする。
1試合平均9435人を集めたナビスコカップ
リーグ戦全45試合の総観客数は42万4564人。1試合平均9435人だった。
だが節を追うように関心が高まり、人びとが引きつけられていった最大の要因は、選手たちの「死にものぐるい」と言っていいほどの奮闘にあった。
「日本サッカーリーグの選手たちがプロのJリーグと名前が変わっただけで、サッカーのどこが変わるのか」
開幕前にはそんな声も少なくなかった。反発するように、選手たちはキックオフの笛から試合終了まで走りまくった。90分間走りきり、延長戦に入っても動きが落ちないプレーが、「プロサッカーってどんなものだろう」と半信半疑で訪れた人びとの心をわしづかみにした。
カズ(三浦知良)、ラモス瑠偉(ともにヴェルディ川崎)、ジーコ(鹿島アントラーズ)を筆頭に数々のスター選手もいた。ヴェルディ川崎は2人のほかにも武田修宏、北澤豪など日本代表選手をずらりと並べ、横浜マリノスとともに人気を二分していた。だがスタジアムにファンを引きつけたのは、スターの存在よりも、試合自体の迫力、選手たちの奮闘から伝わってくる「熱さ」だった。
この大会で生まれ、最初は少人数での活動だったが、試合ごとに増え、大会終盤には完全に定着した各クラブのサポーターが生み出す楽しい雰囲気も、「時代が変わった」と実感させるものだった。
日本代表チームの急成長
Jリーグで初のタイトルを獲得したヴェルディ川崎 【写真:アフロスポーツ】
1992年8月、中国で開催された「ダイナスティカップ」(東アジアの4カ国による大会)では決勝戦で韓国をPK戦の末に下し、日本代表チームとして海外での国際大会で初優勝を飾った。さらに11月には、広島で行われたアジアカップで優勝を飾る。
大会はヤマザキナビスコカップの準決勝(10月16日)と決勝戦(11月23日)の間に行われた。グループリーグ最終戦のイラン戦、後半40分にカズが抜け出して「足に魂を込めた」(試合後のコメント)シュートを決め、準決勝進出。その準決勝では中国に3−2、決勝戦ではサウジアラビアを1−0で下して初めて全アジアを制覇したのだ。
日本のプロサッカーが国際的にも実力も伴ったものであることが理解され、11月23日に行われたヤマザキナビスコカップ決勝戦、ヴェルディ川崎対清水エスパルスでは、国立競技場が文字どおり立すいの余地もなくファンで埋まった。
試合はすでに国民的ヒーローになっていたカズのゴールでヴェルディ川崎が1−0で勝利、Jリーグの最初のタイトルを手中にした。