大きな夢に向かって踏み出した第一歩=Jリーグを創った男・佐々木一樹 第3回

大住良之

1992年11月23日 国立競技場で行われた1992Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝(ヴェルディ川崎vs.清水エスパルス)は、56,000人の大観衆の中で行われた 【写真:アフロスポーツ】

 1992年9月に開幕したJリーグ最初の公式戦、ヤマザキナビスコカップは、節を追うごとに注目を集めていった。この年に初の外国籍監督、初のプロ監督として就任したハンス・オフト(オランダ)の下で急成長した日本代表の活躍も相まって未曾有のサッカー・ブームが訪れ、1993年5月のJリーグ・スタートに国民的な関心が集まることになる。

 Jリーグの初代事務局長、広報室長、理事、常務理事などの立場で2012年3月までリーグ運営に当たってきた佐々木一樹さんに聞く「Jリーグ20年の裏面史」第3回は、嵐のような騒ぎのなかでたどり着いたJリーグ開幕までの裏話をお届けする。

1試合平均9435人を集めたナビスコカップ

 1992年のヤマザキナビスコカップは、10クラブが1回総当たりするリーグ戦(全9節、45試合)と、上位4クラブによる準決勝、決勝という大会形式。第1節の5試合には3万6778人(平均7355人)のファンが集まった。6回の週末の間に3回のウイークデー開催がはさまるという短期集中リーグだったが、9月22日(火)と23日(水・祝)の両日に行われた第5節は、5試合中4試合で1万人を突破して5万9705人を集め、初めて平均1万人を突破した(1万1941人)。そして第8節、10月7日(水)に行われたヴェルディ川崎対清水エスパルスは、首位攻防の一戦ということもあり、3万9032人のファンで東京・国立競技場が埋まった。

 リーグ戦全45試合の総観客数は42万4564人。1試合平均9435人だった。

 だが節を追うように関心が高まり、人びとが引きつけられていった最大の要因は、選手たちの「死にものぐるい」と言っていいほどの奮闘にあった。

「日本サッカーリーグの選手たちがプロのJリーグと名前が変わっただけで、サッカーのどこが変わるのか」

 開幕前にはそんな声も少なくなかった。反発するように、選手たちはキックオフの笛から試合終了まで走りまくった。90分間走りきり、延長戦に入っても動きが落ちないプレーが、「プロサッカーってどんなものだろう」と半信半疑で訪れた人びとの心をわしづかみにした。

 カズ(三浦知良)、ラモス瑠偉(ともにヴェルディ川崎)、ジーコ(鹿島アントラーズ)を筆頭に数々のスター選手もいた。ヴェルディ川崎は2人のほかにも武田修宏、北澤豪など日本代表選手をずらりと並べ、横浜マリノスとともに人気を二分していた。だがスタジアムにファンを引きつけたのは、スターの存在よりも、試合自体の迫力、選手たちの奮闘から伝わってくる「熱さ」だった。

 この大会で生まれ、最初は少人数での活動だったが、試合ごとに増え、大会終盤には完全に定着した各クラブのサポーターが生み出す楽しい雰囲気も、「時代が変わった」と実感させるものだった。

日本代表チームの急成長

Jリーグで初のタイトルを獲得したヴェルディ川崎 【写真:アフロスポーツ】

 オフト監督率いる日本代表の急成長も、サッカーへの関心を高める力となった。

 1992年8月、中国で開催された「ダイナスティカップ」(東アジアの4カ国による大会)では決勝戦で韓国をPK戦の末に下し、日本代表チームとして海外での国際大会で初優勝を飾った。さらに11月には、広島で行われたアジアカップで優勝を飾る。

 大会はヤマザキナビスコカップの準決勝(10月16日)と決勝戦(11月23日)の間に行われた。グループリーグ最終戦のイラン戦、後半40分にカズが抜け出して「足に魂を込めた」(試合後のコメント)シュートを決め、準決勝進出。その準決勝では中国に3−2、決勝戦ではサウジアラビアを1−0で下して初めて全アジアを制覇したのだ。

 日本のプロサッカーが国際的にも実力も伴ったものであることが理解され、11月23日に行われたヤマザキナビスコカップ決勝戦、ヴェルディ川崎対清水エスパルスでは、国立競技場が文字どおり立すいの余地もなくファンで埋まった。

 試合はすでに国民的ヒーローになっていたカズのゴールでヴェルディ川崎が1−0で勝利、Jリーグの最初のタイトルを手中にした。

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著者プロフィール

サッカージャーナリスト。1951年7月17日神奈川県生まれ。一橋大学在学中にベースボール・マガジン社「サッカーマガジン」の編集に携わり、1974年に同社入社。1978年〜1982年まで編集長を務め、同年(株)ベースボール・マガジン社を退社。(株)アンサーを経て1988年にフリーランスとなる。1974年からFIFAワールドカップを取材。1998年にアジアサッカー連盟「フットボール・ライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。 執筆活動と並行して財団法人日本サッカー協会 施設委員、広報委員、女子委員、審判委員、Jリーグ 技術委員などへの有識者としての参加、またアドバイザー、スーパーバイザーなどを務め、日本サッカーに貢献。また、女子サッカーチーム「FC PAF」の監督として、サッカーの普及・育成もつとめる。 『サッカーへの招待』(岩波新書)、『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)など著書多数。 Jリーグ開幕年の1993年から東京新聞にてコラム『サッカーの話をしよう』がスタートし、現在も連載が継続。

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