越川優、イタリアでの経験と代表への思い=男子バレー

田中夕子

3年ぶりの古巣サントリーへの復帰

越川は黒鷲旗で3年ぶりに古巣サントリーへの復帰を果たした 【坂本清】

 越川優の3年ぶりの古巣復帰は、“冗談”から始まった。
「イタリア・セリエA1のシーズン最終戦を、サントリーのチームスタッフの方が見に来てくれたので、『4月13日に帰国するから、黒鷲(旗)、出られますよ』と言ったら、あれよ、あれよという間に話が進みました。『出てくれ』と言われて、出ない理由はないですからね」

 サントリーのユニホームを着るのが3年ぶりというだけでなく、日本でプレーするのも約2年ぶり。とはいえ、感傷に浸るタイプではない。
「いつも通り。僕はコートの中で求められることをするだけです」

 第61回黒鷲旗全日本男女選抜大会初日の5月1日、4面で同時開催されるグループリーグ戦のコートに越川が入る。歓声とともに、観客席からはこんな声が聞こえた。
「あれ、代表選手って、今合宿中じゃないの?」
 6月1日からのロンドン五輪世界最終予選を控え、代表候補選手たちはリーグ戦を終えた直後から、国内合宿に招集された。東京での合宿を4月30日に終え、5月6日から始まる大阪での第2次合宿へ、束の間のオフ期間ではある。だが、当然ながら黒鷲旗の会場に代表候補選手たちの姿はない。

 それなのに、越川は期間限定で黒鷲旗に出場している。かつては日本のエースとうたわれ、己の向上を求めてイタリアに新天地を求めた選手が、「なぜ?」今ここにいるのか。
「必要とされるなら行くけれど、必要とされないから呼ばれない。僕の中では、そう捉えています」

 2012年度の代表候補27名の中に「越川優」の名前はある。しかし、五輪最終予選を直前に控えた今、そのメンバー選考のために重要な意味を持つ合宿に、越川は招集されていない。

北京五輪最終予選、本大会で味わった悔しさ

イタリアでの経験を経て、かつては不得手とされたサーブレシーブも克服した越川 【坂本清】

 越川は岡谷工高在学中の2002年に史上初めて現役高校生で代表入りを果たし、サントリーに入社後も日本代表で主軸として活躍。国内最強とも称されたサーブに象徴される、爆発的な攻撃力を武器に、06年の世界選手権、翌年のワールドカップでは日本のエースとして当然のように日の丸をつけてきた。

 しかし、08年の北京五輪最終予選はそれまでと様相が異なった。全日本男子の植田辰哉監督は、攻守両面においてバランスの取れた石島雄介をチームの軸とし、局面では攻撃力に長けた越川よりも、当時のチームにとって精神的支柱であり、サーブレシーブで安定した力を発揮した荻野正二を起用した。

 そして、16年ぶりにつかんだ五輪出場権。最終予選で悔しさを味わった分、本番でのリベンジを誓った越川だったが、第3戦の中国戦で左ひざ半月板を断裂。4戦目の途中から福澤達哉にポジションを明け渡すこととなった。
「五輪に出れば変わる。そう言われてきたけど、僕は何も変わらなかった。本気で変えるためには、次の五輪までをどう過ごすか。それが重要だと思ったので、迷わず、挑戦を決めました」

 北京五輪翌年、越川はイタリアへと渡る。高さで勝る相手と日ごろから対峙(たいじ)することで、攻撃力に磨きをかけることも狙いではあったが、それ以上に向上させたいと願っていたのが、不得手とされたサーブレシーブだった。サントリーでは攻撃に影響が生じないよう、サーブレシーブを免除されることも多かった。だが、移籍したパドバでは守備の中心として、多い時には1試合で約8割ものサーブを越川が受けることもあった。
 実戦経験を積む中で、越川の意識はかつての「セッターに返さなきゃいけない」というがんじがらめの状態から、「上に上がればOK」という意識へと移行。余分な硬さは消え、苦手と思うこともなくなった。

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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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