“匠”松平康隆が、日本のバレーボールに遺したもの

楊順行

昨年12月31日に息を引き取った松平氏。日本バレーを人気スポーツに成長させるなど、日本バレーに大きく貢献した。写真は98年に殿堂入り表彰式に出席した時のもの 【写真は共同】

 日本バレーボール協会名誉顧問の松平康隆氏が2011年12月31日、肺気腫のため亡くなった。国際バレーボール連盟副会長、アジア・バレーボール連盟会長、日本オリンピック委員会(JOC)の要職を歴任するなど、バレーボール一筋の人生に静かに幕を下ろした。

全日本男子は「勝たないとダメなんだ」

 『松平康隆は匠である』――。

 某バレーボール雑誌の編集長を務めていた僕の先輩が、かつてこう書いたことがある。30年近くも前のことで、詳しい内容は覚えていないが、おそらくこういうことだ。

 松平氏は1964年の東京五輪で、全日本男子チームのコーチとして銅メダルを獲得した。だが、バレーボールが初めて五輪競技となったこの大会、「東洋の魔女」といわれた全日本女子が金メダルを獲得したため、男子はほとんど脚光を浴びることがなかった。

「勝たないとダメなんだ」

 監督となった松平氏は、8年後のミュンヘン五輪優勝に照準を合わせ、強化を進めていく。大古誠司、森田淳悟、横田忠義ら、当時としては大型の“ビッグ3”を10代のうちに抜てきし、8年計画を進めた。

ミュンヘン五輪金メダルに向け、壮絶な日々

「常識の先に世界一はない」がモットーだから、過酷さは想像を絶した。その過程でAクイック、Bクイックの速攻、一人時間差、天井サーブなど、日本オリジナルの攻撃が生まれたが、重視したのは守備だった。全選手に、コートの幅と同じ9メートルの逆立ち歩きをノルマとし、体操選手のような身のこなしをたたき込む。コート上を横っ跳びするフライングレシーブでは、大の男たちのアゴが割れ、出血した。派手な攻撃は見栄えがするが、それも守備という地道な基礎工事があってこそ。バレーに関しては、妥協はしない。目立たない部分にこそ、丹精をこめる。なにやら、昔気質の職人のようだ。

 そうした8年の蓄積は、72年ミュンヘン五輪、準決勝でのブルガリア戦の大逆転、そして決勝で東ドイツを破っての金メダルへとつながっていく。最後まで、9メートルの逆立ち歩きにもがき、苦しんだ大古元全日本監督はいう。

「何もできないところから指導が始まった。本当に厳しい方で、世界一になるための執念がすごかった。私は、松平さんの手づくりの作品なんです」。
 だからこその、“匠”――。ミュンヘン五輪では世界の大砲といわれ、のちには監督として92年バルセロナ五輪6位に導いた大古だが、監督在任中でも、この“匠”が激励などに訪れると、「ハイ、ハイ」と、大きな体を小さくし、直立不動になっていたものだ。

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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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