“匠”松平康隆が、日本のバレーボールに遺したもの

楊順行

メディアを利用し、バレーを人気スポーツに

72年のミュンヘン五輪で金メダルを獲得した全日本男子を率いたのが松平監督。日本の黄金時代を築いた 【写真:アフロ】

 一方で、都立城南高(現六本木高)から慶大という経歴の松平氏は、都会的なセンスも持っていた。たとえば、マスメディアの利用だ。スマートなバレー選手は女性の人気になる、と雑誌への露出を増やし、ミュンヘン五輪前にはアニメと実写のテレビ番組「ミュンヘンへの道」を企画・監修し、全日本男子の金メダルへの挑戦を同時進行で描く。

「自分がやっているスポーツに、少しでも多くの人に関心を持ってもらいたいのは当然のこと」という松平氏は、その後もテレビとのコラボを進めた。バレーは、毎年のように国際大会が日本で開催される希有な団体競技だが、根底には膨大な放映権料がある。これは、松平氏が日本協会専務理事や会長時代に手がけた戦略の果実だ。こうした手腕でバレーは、日本でも指折りの人気スポーツに成長していく。

イベント性が高まる日本バレー

 だが――ここからは、私見である。

 テレビとの行きすぎた親密さは、スポーツとしてのバレーを少々いびつにしてはいないか。昨年のワールドカップ(東京など)、世界バレーボール連盟の意向もあり、従来のようなタレントのパフォーマンスはなかったものの、試合開始と同時に観客は、「ニッポン! チャチャチャ」と相変わらずの大はしゃぎ。五輪切符を争う展開の機微もプレーの高度さも関係なく、ノリとしてはスポーツよりもイベント会場だ。だから一過性のファンは獲得できても、バレーへの肥えた目はなかなか育ちにくい。そもそも松平氏は、東京五輪で冷遇された反発からメディアの利用を思い立ったという。バレーを見る側にもそろそろ、反発や批判の精神が芽生えるべきじゃないか。

 ともあれ、2012年は男女とも世界最終予選に五輪出場権をかける“オリンピック・イヤー”だ。ミュンヘンからちょうど40年。

 松平さん、空から全日本バレーを見守っていてください――。

<了>

2/2ページ

著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント