山本聖子、愛情を味方につけて五輪へ再チャレンジ
結婚、出産を経て、ロンドン五輪を目指す山本聖子 【写真:江藤大作】
実績を積み重ねた…だが夢はあと一歩で手元からこぼれ落ちた
当時の自分が感じたのは、突然目の前から自分のすべてを取り上げられた。目の前から……。こう言ってはおかしいですけど、本当に突然職を失った人というか……「あしたから何をしていこう……」みたいな、そんな気持ちになりましたね。
――聖子さんは当時23歳。この競技の“パイオニア”として君臨したお姉さん・美憂さん(48キロ級)も代表選考試合で3位。五輪代表に選ばれませんでした。
もちろん自分も行きたいし、「父を連れて行きたい」という気持ちがすごく強かった。姉と二人でそれができなくて、もう本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。悔しいのと、父に対しては本当にあんなに一生懸命に教えてくれていたのに「すみません」と……。
――レスリングのミュンヘン五輪代表として活躍した父・郁榮さんは、娘たちに何とおっしゃったのですか?
父は「よくやった、よくやった。頑張った、頑張った。もういい、もういい」と。一回も「何であのとき……」とかプレーへの不満を言われたことはないですね。試合が終わったらもうそこで終わり、と。
――五輪代表の座を争った吉田沙保里選手(ALSOK)は、アテネ五輪で金メダル獲得。彼女は“厚い壁”でしたか?
小さい頃から一緒に戦ってきて、勝ったり負けたりを前年から繰り返して、本命の年で負けてしまった。「絶対に勝つ」という強い気持ちでした。気持ちの面でも体力の面でもとても充実していた。ただあのとき一番強かったのは彼女。私はやることはやりきった。だから何の後悔もなかったですね。
山本家の3人の子供たちは全員、尊敬する父と同じレスリングで『五輪』を夢見た。姉はアテネ五輪、兄・徳郁はシドニー、北京五輪を目指した。同じ夢を追う肉親の存在は、聖子さんに強烈な刺激と使命を感じさせたに違いない。
痛みを抱える『己』との壮絶な闘い、揺れる思いで“終わり”を決断した
もうレスリング、試合に対して気持ちをつくることができなくなった、というのが一番の理由です。04年に右ヒザの内視鏡手術をして……。半月板がめくれちゃって、1年間で同じ箇所を2度手術しました。リハビリが1年半以上も続いて、ロクに練習ができないまま試合に出て、負けて、気持ちがガクガクガクッと。
――リハビリをしていた頃が、競技人生で最も辛かった時期ですか?
辞める1年前の05年〜06年にかけて、そのときの精神状況が一番辛かった。本当にケガがひどくて日常生活もできなかった。ヒザがロッキングして伸びなくて、1時間とか2時間うずくまったり……。雑誌を取ろうとして体を伸ばすと「ウッ、きた!」みたいな。そんな状態がしょっちゅう。
――ヒザがロッキングして動けなくなる、この症状は試合中も起きたのですか?
05年の全日本選手権決勝もロッキングしました(笑)。そのまま試合続行です。自分でタイムを要求したら相手のポイントになっちゃう……。だからヒザが曲がったまま続けた。練習中にロッキングしたときは、片足で跳びながらチームメートに支えてもらって帰った。ヒザをケガするとギックリ腰もすごく頻繁に起こって……悲惨だった。
――引退はすぐに決意できましたか?誰かに相談は?
辞める気持ちは70パーセント固まっていたけれど、残りの30パーセントは未練ですよね。迷っていた。付き合っていた彼(現在の夫)は、アドバイスはしないで私の話を「うん、うん」と聞いていました。あとから「オレが意見を言ったら、たぶんそっちにするだろ? だからオレは言わなかった」と。
柔らかく弾けるような笑顔が魅力。そんな彼女の最も過酷な時期を支えた彼との結婚。得たものは大きかったという。「精神的な変化はものすごくあります。やっぱり安定していますね、心が本当に安定しています」。家族や友人……そばにいる人を大切にすると、自分が辛いときの支えになってくれる。人生を渡るとき、“味方”がいると、ピンチを乗り越える力がやがてこみ上げてくる。