山本聖子、愛情を味方につけて五輪へ再チャレンジ

情報提供:オリコンDD

煮詰まった状況を一度リセットしたから、手に入れた“武器”がある

リポーターの仕事で北京五輪を見て、「やっぱりここに来たい」と感じたのが復帰のきっかけ 【写真:江藤大作】

――引退したあと、また現役に戻ったきっかけは?

 二度と戻るつもりはありませんでした。「もう後悔はない。こんな厳しい練習に戻れるわけがない」と思って引退したけど、やっぱり五輪が自分の中にひっかかっていた。そんなときリポーターの仕事で北京五輪を見て……人生で初めて五輪というものを生で見た。そこが大きかった。「やっぱりここに来たい。選手として来たいな」と。

――誰に相談しましたか?

 やっぱり主人です。喜んで「いいじゃない」みたいな(笑)。そう言ってくれたので私は本当に恵まれています。美憂はすごく賛成してくれて。父はシビアで客観的に「オレはこう思うよ」とズバッと言う人だから、相談する前からある程度練習に取り組んで、「実はこの時期から始めて、いまはここまでやっていて、これぐらいになりました」とデータ勝負。納得してくれました。

――引退したのは06年7月、復帰は08年8月末。2年以上を経て復帰するのはきつそうですが……。

 「ここまで休んでいたからもう無理だ」というあきらめも、心の中にはありました。「だから復帰は辞めよう」と。でも、北京五輪を見たときに感じた、胸の下がグウウウウウっとくる熱い気持ちを思い出すと、「やっぱりやりたい」という気持ちの方が勝ちましたね。

――結婚・出産を経て09年8月14日、3年ぶりの試合(ポーランドオープン、59キロ級)で見事優勝。一度競技を離れたことが、再挑戦した際にプラスに働きましたか?

 あの2年で、気持ちがまた充電できたのかもしれないですね。「常に相手に勝たなきゃいけない」と考えるのはすごく疲れる。それを一度辞めて、気持ちがリラックスできて満タンにできた。そして「またやりたい」というところまで来られた。タイミングは良かったかな、と思います。

愛情と時間という“武器”を手にした聖子さんは、当時1歳の息子に「ママ、やるよ」と現役復帰を宣言。現在4歳になる我が子には「スポーツは何でもやらせて自分で選ばせたい。自分で見つける力を身に付けてほしい」と願う。自分たち兄妹も、父の強制ではなく自らの意志で選んだ。好きか、楽しいか、合っているか…個性を活かした道へ進むと、人生は自分の形・色を成していく。

忙しい、辛いときこそ「気持ちを切り替える」。それが“特効薬”になる

――現在は一日2回練習だそうですね。ママが練習しているとき、お子さんは?

 朝は走ったり筋トレをやって、午後はマット練習を2時間半。その間、子供は幼稚園です。送り迎えは主人が行けるときは頼んで、行けないときはもちろん私が行っています。
――レスリングを忘れて、日常生活へ気持ちが切り替わる瞬間はいつ?

 家に帰った瞬間です。やることがありすぎて(笑)。家に帰ったら「あれやって、これやって、次あれやって」とやらなきゃいけないことを、まず頭の中で自分なりに整理して、それからやる(笑)。幼稚園のお弁当があるのできょうは6時45分起き。主人と息子が寝ている間に急いで朝ご飯とお弁当を作って、幼稚園バッグを用意して、自分が食べて……という感じ。

――結婚生活や子育てと、アスリートを両立するのは難しそうですが……。

 競技と結婚はまったく別ですね。私はレスリングのときは、レスリングのことしか考えない。子供がいるので生活の面で左右されることもありますけど、レスリングのことを考えるときは集中して考えています。もちろん、できなくて落ち込むこともありますけど……。でも落ち込むのは一瞬ですよ。

――気持ちの切り替えが早い、集中力を高めるのが上手なのは山本家の特徴?

 立ち直り、早いですよ(笑)。五輪予選の最後に負けて、「次はもうチャンスがない」という状況になった場合はだいぶダメージが強いですけど、たとえ試合で負けても、まだ最後の最後が決まるまでチャンスがある時点では絶対に落ち込まない。ウチの兄弟は私よりもっと切り替えが早い(笑)。

――そんなときは何を考えているのですか?

 次にやることを考えますね。クヨクヨして強くなれるなら、いくらでもクヨクヨしますよ。でもそんな風に考えていても強くなれないことは分かっている。だから、そこで気持ちを切り替える。

――周囲から厳しい意見を言われたら、聖子さんは聞き入れる方ですか?

 そのアドバイスが自分にとって“都合のいい”アドバイスじゃなく、自分にとって“いい”アドバイスだったら、取り入れますね。一瞬は「はあ〜、私だってやっているのに……」と嫌な気持ちになりますよ。でもよ〜く冷静に考え直して、「それは自分のためだな」「確かにこれをやっていなかった」と分かったら実行します。自分のためになるならやりますね。

――「自分にとって都合がいい」ではなく、「自分のためになる」という視点で判断する。客観的な目で自分の成長を考えているのですね。

 受け入れて、継続して、気が付いたら言われたときの嫌な気分は忘れている(笑)。きっと前に進んでいるからだな、と思いますね。

出産時の体重75キロを、現役復帰の際は58キロまで戻した。さらに63キロ級で出場するため、プラス5キロ分の筋肉を付けた。「とにかく金メダルを獲りたい」。力強い笑顔で『五輪』を目指す。アスリートらしい根性と、はにかんだ笑顔が同居する。真っすぐな芯を持っている。そんな聖子さんに惹かれて“味方”が集まってくる。

<了>

山本聖子プロフィール

1980年8月22日、神奈川県川崎市出身。トキワ松学園高校、日本大学通信教育部商学部を経てジャパンビバレッジへ入社。
父・郁榮は男子レスリングのミュンヘン五輪代表、日本体育大学教授。姉・美憂(元世界王者)、兄・徳郁(総合格闘家)の影響でレスリングを始める。
94年、13歳で全日本選手権44キロ級3位。99年全日本選手権準優勝、ジャパンクイーンズカップ優勝、世界選手権51キロ級優勝。2000、01年は同56キロ級連覇。03年には同59キロ級優勝と3階級で4度の世界王者に輝く。同年、クリッパン国際大会優勝、ポーランド・オープン優勝。主に59キロ級で活躍。04年アテネ五輪で女子レスリングが正式種目入り。五輪第2次選考会を兼ねたジャパンクイーンズカップ55キロ級決勝で、吉田沙保里に惜しくも敗れた。ヒザのケガに悩まされたが05年、全日本選手権59キロ級優勝。06年アジア選手権優勝。同年3月、ハンドボール日本代表の永島英明と婚約。7月引退、10月結婚。07年第一子を出産。09年1月、現役復帰。59キロ級でポーランド・オープン優勝、63キロ級へ転向後の全日本オープン選手権優勝、全日本選手権3位、10年、ヤリギン国際大会準優勝、明治乳業杯全日本選抜選手権準優勝、アジア選手権3位。12年ロンドン五輪では63キロ級で出場を狙う。1メートル63、63キロ。

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