城彰二「壁を破らないと楽しいこともいいことも起きない」=“どん底”の先に見えた光とは?
98年W杯当時のエースとしての重圧、どん底から立ち上がったきっかけなどを語った城氏 【写真:江藤大作】
夢舞台から一転……日本中から受けた激しいバッシング
今までの絶対的エースストライカーがいなくなって、(当時の)岡田(武史)監督が「城をエースとして使う」と公言したことで、大きなプレッシャーが自分にかかりましたね。
――城さんにとって、三浦選手はどんな存在なのですか?
やっぱりオレは昔からカズさんにあこがれて、「この人をお手本にしよう」と読売クラブ(現東京ヴェルディ)の時代からずっと見ていましたから。18歳で初めて代表に呼ばれた時から一緒にいさせてもらって、本当に弟分みたいな感じで可愛がってもらって……。オレも絶大な信頼を置いていました。チームの精神的な支柱がいなくなるなんて、誰もが思わなかった。
――信頼する人が突然目の前からいなくなったことで、ご自身に変化は起こりましたか?
すごく尊敬している人がいなくなったことにショックを受けて……。メシは食えないし、夜中に起きて吐くし。体重が5キロくらい落ちて……。ストライカーとしてオレが跡継ぎをしなきゃいけないというプレッシャーに負けちゃったというか。本当に精神状態は最悪でした。
――当時、まだ22歳。試合本番まで時間もない。少しでもいい状態で試合に臨むため、チームドクターにも相談したそうですね
チームドクターや日本の精神科医に「きつい。かなり厳しい。どういった形で臨めばいいのか」と尋ねて、いろんな対策を取ろうと思いました。集中力を高めるからとガムをかんだり、リラックス効果があると聞けば笑顔をつくって次につなげようとか、いろんなことをやったんですけど……。
――それが裏目に出て、ガムをかんでヘラヘラ笑っている、とメディアから「戦犯」としてたたかれ、帰国した空港ではサポーターから水をかけられました
水をかけられた怒りとかはまったくなかったです。もう真っ白になっているというか。世界との差を初めて知って……絶望感ですよね。結果が残せなくて自分が悔しかった。それに、メディアのバッシングと水をかけられたことによって、「もう、サッカー辞めようかな」と。
踏みつけられてもあきらめるな――。教えてもらった“エースの自覚”
カズさんから連絡をもらって、「水ならまだいい方だよ。オレは卵だったりパイプ椅子だったり、いろんなものを投げられた」と。「エースの重圧っていうのはすごく大変だよな」と話してくれて。それで吹っ切れました。その一言があったから、オレはサッカーを続けられた。
――悔しさを経験したカズさんが、城さんを励まして共鳴し合う。残酷な運命の2人なのに素敵な関係ですね
「エースとして認めてもらえたんだから、おまえはそれを糧に頑張らないといけない」って。そう言われた時にすごく熱くなるものがありました。「世界と戦える選手にならなきゃいけない」とスペイン移籍に前進しましたね。
――その後、27歳で神戸へ期限付きで移籍。でもシーズン1得点で来季の契約延長はナシ。ほかのチームからも獲得の話はありませんでした
初めて自分が置かれている立場に気づきましたね。結果が残せなくなってきて、年も取ってきて、プライドばかりが先行して……。イメージする自分とプレーのギャップがどんどん出てきた。「ああ、もうプロを辞めなきゃいけないのかな」と。水をかけられた時よりも辛かった……。
――焦りを感じていたころ、かつてのチームメートが横浜FCへ誘ってくれました。“信頼の絆”は消えていなかったのですね
ほんと拾われたって感じですよね。当時はリトバルスキー監督で、コーチにも(ジェフユナイテッド市原=当時=時代の)元のチームメートがたくさんいて。「おまえ、どうするんだ」って、みんなが集まってくれた。リトバルスキーから「もう1回再生させてやる。もう1回トップを見させてやる。おまえはもっとできるはずだし、あの時のように輝ける。だから一緒に戦っていこう」と言われた時はすごく感動した。「この人たちの周りにいれば、どんなことでも耐えていけるし、頑張っていけるな」って。