札幌山の手高三冠の立役者・長岡萌映子=バスケ

高野祐太

高校三冠、オールジャパン3回戦進出と快進撃を見せた札幌山の手。その2年生エースとしてチームを引っ張った長岡萌映子 【高野 祐太】

 今季のバスケットボール界の高校団体部門MVPを選ぶなら、最有力候補は札幌山の手高校女子チームだろう。女子で歴代8校目、北海道勢では男女を通じて初となる高校総体(インターハイ)、国体、高校選抜(ウインターカップ)の3冠を達成した。加えて、各世代のトップチームが集結する正月の全日本総合選手権(オールジャパン)でも、インカレ準優勝の愛知学泉大など強豪大学チームを2つも撃破し、3回戦のWリーグ女王・JXサンフラワーズからは、敗れたとは言え73点を奪って見せた。

 そんな道産子チームの快進撃を強力にリードしたのが2年生エースの長岡萌映子だった。身長180センチの長身のため、チームでのポジションは一応センター。もちろんポストプレーやリバウンドに頼れる働きをするが、仲間を生かすパスも、ドリブルでゴールに切れ込むドライブも、外角から放つ3ポイントシュートもこなせる。
「司令塔のポイントガード・町田瑠唯(主将、3年)以外はポジションの区別なく多彩なプレーを仕掛けるから、相手にディフェンスを絞らせない強みがあった」(上島正光コーチ)というチームの特徴を象徴するプレーヤーに成長している。そうしてウインターカップの決勝では、大会記録にあと1点と迫る50点を1人でたたき出した。

 才能の片りんは、五輪を目指すジャパンの関心も引き寄せる。女子日本代表の中川文一ヘッドコーチは「フル代表でもエースになれる」と将来への期待感を口にし、4月の代表合宿への招集の可能性を示唆した。日本が世界と戦い、五輪で成果を挙げようとしたとき、そのオールラウンド性こそが鍵となる。体格で劣る日本が試みるべき戦略の要諦(ようてい)が長岡のプレーに含まれているのだ。

新主将に就任 精神的な成長が今の課題

 輝かしくも慌ただしい年末年始が過ぎ、早くも新チームが始動した1月中旬の札幌山の手高校体育館。そこには率先して精力的に動き回り、部員の輪の中心で練習メニューの指示を出す長岡の姿があった。新主将に選ばれ、その役割を果たそうという意欲にあふれている。神田英基アシスタントコーチの側まで相談に来た所で「早くも立派なキャプテンシーを発揮しているね」と声を掛けると、「まだまだです」とはにかんだ。

「リーダーには向いていない」と自認する。「精神的に弱い面がある」とも思っている。だが、同校の主将は「自分らで考えさせるのがうちのやり方。キャプテンも自分たちで選ぶことで互いに責任を持つことができる」(上島コーチ)との方針の下、代々メンバー間の互選で決めてきた。メンバーたち自身が、長岡が主将にふさわしいと考えたということだ。プレーのレベルはもちろん、そう思わせるものが長岡にはあったのだ。チームまとめに悩んだときには、きっと仲間が助けてくれる。神田コーチは「主将を経験することで、一回り精神的に大きくなってくれるでしょう」と目を細めた。

1年休んだ後に、「バスケがいいな」と思い再開

ウインターカップ決勝では1人で50点を取る活躍を見せ、チームを優勝に導いた 【(C)JBA】

 本人や周囲の人々の話を聞くにつれ、長岡萌映子というバスケットボールプレーヤーの成長には、その才能を引き出してくれた指導者や仲間の存在が重要な意味を持つことが浮き彫りになって来る。
 小学生や中学生のころはさほど目立つ存在ではなかった。「集中したときのリバウンドも違うし、歩幅も違う。力強いなと思いました」(北出良和札幌宮丘ミニバス少年団コーチ)、「当時から身長が高かったが、ドライブ、ロングシュート、リバウンドからの速攻など、オールラウンダーの雰囲気があった」(高橋和也北海道ジュニアバスケットボール連盟事務局長)などの評価がある一方で、中学時代のプレーに目を止めて勧誘した上島コーチでさえ言う「選抜チームの全国大会でプレーを見たけど、特別活躍してはいなかった」との言葉も事実だった。中学の部活も強くはなかったから、放っておけば、才能を発揮する機会が失われてしまう可能性もあったのだが、そうはならなかった。

 長岡がバスケットボールを始めたのは、小学2年のとき。姉の背中を追って小学校の少年団に入った。「両親は自分たちがやっていたバレーボールをやらせたかったみたいだけど、学校にバスケチームしかなくて」。
 動機が弱かったから、4年生の1年間はこの競技から離れてしまう。「バスケの面白さがまだ分からなかったんですね」。
 5年生になり、「休んでいる間に水泳とかバレーボールの様子も見に行ったけど、やっぱりバスケがいいなと思って」競技を再開するが、このときチームメートの助けが力となっていた。当時、指導をしていた北出コーチが振り返る。「あのときのチームは優しい子が多くて、『萌映子ちゃん戻っておいでよ』と何度も声を掛けていました。だから、あのときの仲間がいなかったらと考えると、今の萌映子はなかったかもと思えるんです」。

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著者プロフィール

1969年北海道生まれ。業界紙記者などを経てフリーライター。ノンジャンルのテーマに当たっている。スポーツでは陸上競技やテニスなど一般スポーツを中心に取材し、五輪は北京大会から。著書に、『カーリングガールズ―2010年バンクーバーへ、新生チーム青森の第一歩―』(エムジーコーポレーション)、『〈10秒00の壁〉を破れ!陸上男子100m 若きアスリートたちの挑戦(世の中への扉)』(講談社)。

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