岡田ジャパンが戦い方を変えた理由=選手の証言でひも解く日本代表総括 第1回

元川悦子

川口が岡田監督に伝えた“選手たちの叫び”

イングランド戦でゴールを決めた闘莉王(左から2人目)。追い詰められた状況の中、闘莉王の言葉は選手たちの意識を変えるきっかけとなった 【写真:Action Images/アフロ】

 この発言を境に、場は深刻なムードと化した。自分たちはこの先、どうやって戦うべきなのか。その議論が一気に加熱していった。
「前から行くか行かないか。そこが一番大きなポイントだった。いろんな意見が出て、僕は発言しなかったけど『前から行ってもねぇ……。オランダとやった時も前半はスカされて、後半に失点して負けたからね』などと考えていました。自分自身もみんなもチームとしても揺れていたんですよね。あれだけ結果が出ていなければ、ネガティブになるのも当然だから。それで結局、『うまくいかないんなら、真ん中でラインを止めた方がいい』って話になりました」と中村憲は白熱した話し合いの場を回想する。

 1時間以上にわたった話し合いで集約された意見を、川口は岡田監督に伝えた。
「監督と話した具体的な内容は言えないですけど、話し合いのことは伝えました。このミーティングまでは確かにみんなバラバラだった。自分の意見を言った選手も言わなかった選手もいるけど、いろんな思いがあった。それを表に出す機会を持てたことは、本当にプラスになったんじゃないですかね」

 横浜F・マリノス時代に象徴される通り、もともと守り倒すことを得意としている岡田監督だったが、2年7カ月も追い求めた戦術を変更するのは、清水の舞台から飛び降りるほどの勇気がいる。どうすべきか悩みに悩んだことだろう。「今までの形をやるには、何人かの中心選手が最高のパフォーマンスを出すことが前提だった。しかし彼らが調子を落としていたので、どこかで踏み切らなければいけなかった」と彼はパラグアイ戦の翌日、こう語っている。それを決断させたのが、“選手たちの叫び”だったのではないだろうか。

カメルーン戦直前まで選手たちには不安があった

 イングランド戦を2日後に控えた翌28日のトレーニング。チームには目に見えた変化が表れた。
「次の日から雰囲気もガラッと変わった。みんなそれまでも『頑張らなきゃいけない』と思っていたけど、どうやって頑張るべきかが明確になったのかもしれない」と闘莉王は言う。中村憲も「守備を固める戦い方への準備が始まった」と証言する。

 イングランド戦では、それまで主力だった中村俊輔と楢崎が外れ、阿部勇樹と川島永嗣が入った。そしてゲームキャプテンも中澤佑二から長谷部に替わった。岡田監督はなりふり構わず突き進み始めたのだ。この一戦は1−2で逆転負けを喫したが、強豪相手に善戦し、手ごたえはつかめた。しかし6月4日のコートジボワール戦では手も足も出ず0−2で完敗。またしてもチームに不安と動揺が広がった。
 積み上げてきた戦い方をすべて捨てる必要が本当にあるのか……。そんな疑問を持った選手もいただろう。最終予選を戦い、チームを支えてきたメンバーなら違和感を覚えて当然だ。岡崎慎司もこんな話をしている。
「自分にも玉砕覚悟で行きたい気持ちはありました。ベテランの選手にも言いたいことはあったと思います。だけど監督が変えたら、僕らはその道に走っていかないといけない。結局、僕はワントップをやっていて、コートジボワール戦を最後に先発を外されたけど、ずっと自分だけが悪いとは思っていなかった。チーム全体の調子が悪くて、パスが全然回ってこなくて。そこでワンチャンスでも強引にやって可能性を見せていれば、もしかすると本大会も出られていたかもしれないとは思うけど……」
 ただ「自分たちがこの事態を招いた」と神妙に受け止める中村憲のような者もいる。
「僕だって最初の戦術でいきたかったけど、もうしょうがない。4連敗していたって事実があったし、すべて自分たちが招いたこと。日本が勝つためには何でも受け入れるしかなかった。そこまで追い込まれていたからこそ、やれたのはあります。戦術が変わったことに文句を言う人は誰もいませんでした」

 結局、岡崎も外れることになり、カメルーン戦4日前のジンバブエとの練習試合では、本田圭佑がワントップに入った。右ワイドの松井大輔も練習ではほとんど試したことのない形で、メディアばかりでなく、多くの選手も驚いた。
「圭佑のFWにはびっくりしました。実質的にはゼロトップみたいな感じだったけど。でも、あいつはあいつなりに走っていたし、勝負強いところがあった。自分はサイドに回ったんだし、そこで走るしかないと思って切り替えました」と岡崎は話すものの、やはり複雑な心境だったに違いない。
 FIFA(国際サッカー連盟)ランク110位のジンバブエと30分戦った主力組は結局、得点を奪えずに終わった。試合を見ていたオランダ人記者に「日本の得点力不足は深刻だね」と厳しい指摘を受けるほど、急造チームはあまり機能していなかった。本田は「手ごたえをつかめた」と明るく振る舞っていたが、「今日は参考にならない」と闘莉王は重苦しい表情で話すなど、選手たちには明らかに温度差があった。
 大きな方向転換をしてから2週間。日本代表は不穏な空気をぬぐい切れないまま、運命のカメルーン戦にぶつかっていくしかなかった。

<第2回に続く(23日掲載予定)>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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