ラウルとグティ、ついに“ホワイトハウス”を去る

 パオロ・マルディニやフランコ・バレージのようにはいかなかった。ラウルとグティは、ミランにおけるマルディニ、バレージのように長年1つのクラブでプレーしてきた今日では珍しい存在だったが、ついに2人ともレアル・マドリーを離れることになった。2人のいないレアル・マドリーは想像しにくい。長年プレーした選手が移籍する時は、たいていそんなものだが、またしても組織が選手よりも重要だという事例が示されたわけだ。

 ツール・ド・フランスで3回目の総合優勝を果たした数時間後、アルベルト・コンタドールはインタビューの中でラウルについて話していた。
「偉大な選手が去った。彼はすべてをレアル・マドリーにもたらした。彼は若い選手たちや次世代への模範だ。クラブにすべてをささげた彼に感謝したい。彼はシンボルで、僕は彼にあこがれている」
 コンタドールはラウルの退団について意見を求められた1人だった。フットボールの世界の人々だけでなく、ほかのスポーツや分野の人々にとっても、ラウルの退団は1つの事件だったからだ。“メレンゲ”(レアル・マドリーの愛称)で16年間プレーし、741試合で323ゴールをゲットした男が、もうレアル・マドリーでプレーしないのだから。

 ラウルの物語はすでに有名だ。マドリード郊外のロス・アンヘレス、サン・クリストバルの貧しい地区に生まれ、アトレティコ・マドリーの大ファンだった家庭で育った。ラウルはアトレティコで成長したが、資金繰りに困ったヘスス・ヒル会長(当時)は何とアカデミーを閉鎖してしまう。アトレティコの大エースになるはずだった少年が、皮肉なことにライバルであるレアル・マドリーのシンボルになったきっかけである。プロデビューは1994年、まだ17歳のラウルを抜てきしたのは、ホルヘ・バルダーノ監督だった。そして、ラウルは急速にチームのレギュラーに定着していくのだが、彼の初ゴールは早くもデビュー1週間後に記録されている。相手は何と“古巣”のアトレティコだった。

 ラウルは最初のシーズンで、エミリオ・ブトラゲーニョのポジションを奪った。ブトラゲーニョは単なるFWではない。“キンタ・デル・ブイトレ”(ハゲワシ部隊)と呼ばれたレアル・マドリー攻撃陣のリーダーで、クラブを代表する選手だった。ブトラゲーニョはチームの低迷期に現れ、その台頭とともにあらゆるタイトルを手にした。ヨーロッパのトップ3選手に2年連続で選ばれ、91年にはピチチ(スペインリーグ得点王)も獲得した。

 リーグ優勝は6回、カップ戦優勝2回、そしてUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)連覇。こうした業績だけでなく、ブトラゲーニョはチームのボスだった。ブトラゲーニョを筆頭とした4人の中心選手(ミッチェル、マルティン・バスケス、サンチェス、パルデサ)から“キンタ・デル・ブイトレ”と呼ばれていたわけだ。
 そのブトラゲーニョをメキシコのクラブに追いやったのが17歳のラウルだった。ラウルは即座に“ブイトレ”の後継者に収まったわけではない。しかし、いつの間にか彼はレアル・マドリーのロッカールームを仕切る存在になっていた。同世代のフェルナンド・モリエンテス、あるいは後輩のイケル・カシージャスとともに。
 しかし、年齢には勝てない。スペイン代表として102試合に出場して44得点を記録したラウルも、ユーロ(欧州選手権)2008のメンバーには選ばれなかった。ルイス・アラゴネス監督、続くデルボスケ監督もラウルを呼び戻すことはなく、その間にフェルナンド・トーレスとダビド・ビジャが地位を確立していた。長年スペイン代表でも活躍したラウルだが、最も輝かしい瞬間である2010年夏のピッチにはいなかった。レアル・マドリーにおいても、マヌエル・ペジェグリーニ監督はゴンサロ・イグアインとクリスティアーノ・ロナウドのコンビを重用し、ラウルは出番を減らしていた。プレシーズンの出来が良かったにもかかわらず、ラウルはベンチに座り続けた。サンチャゴ・ベルナベウ(レアル・マドリーの本拠地)における彼の役割は終わったのだ。

 しかし、能力と経験に恵まれた選手を野心的なクラブが放っておくはずもない。ニューカッスルとトッテナムが興味を示し、最終的にはシャルケ04が2年契約に成功した。シャルケはブンデスリーガで昨季2位、今季はチャンピオンズリーグ(CL)に参戦する。そこではCL最多の66ゴールを挙げたラウルの経験が役に立つはずだ。
 フェリックス・マガト監督は「われわれは特別な選手、ワールドクラスのゴールゲッターとサインした。この契約はチームの強化と再編成にとって決定的だった」とラウル獲得の意味を述べている。マガトのコメントはよくある歓迎の言葉だが、レアル・マドリーに別れを告げたラウルの言葉は感情がこもっていた。
「フットボールはわたしの人生で、レアル・マドリーは家だった。われわれはそこで特別な時間を経験した。わたしはフットボーラーで、これからもプレーしていくが、レアル・マドリーへの忠誠心は変わらない。わたしはここにすべてをささげようとしてきた。しかし、今日から新しいピリオドが始まる。ただ、レアル・マドリーのために、わたしにできることは何でもするつもりだ」

 やはりレアル・マドリーを去るグティは、下部組織で9歳の時からプレーしてきた。トップに上り詰めた彼は、95年から528試合でプレーした。ラウルとは違い、グティは「永遠のホープ」とも呼ぶべき存在だった。素晴らしいプレー、輝かしいテクニックを示しながら、ついにレアル・マドリーで成熟した選手として中心にならないまま30歳を過ぎた(現在は33歳)。
 グティのプレーで最も印象的だったのは、07年5月6日のホームでのセビージャ戦だった。グティのプレー時間は32分間だったが、ベンチから出てきた彼は多くのチャンスを作り出して3−2の勝利に貢献し、30回目のリーグ優勝を決定付けたのだ。08年2月10日のバジャドリー戦では2ゴール3アシストの大活躍。7−0の勝利に貢献し、マン・オブ・ザ・マッチにも選ばれた。グティは2年契約でトルコのベシクタシュに新天地を求める。

 ラウルとグティの移籍は1つの時代の終焉(しゅうえん)を意味する。しかし、ここ数年タイトルから見放されてきたレアル・マドリーにとっては、必要な変化だったのだろう。

<了>
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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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