中村俊輔、W杯と縁のない男=背番号「10」の南アフリカでの孤独な戦い

元川悦子

すべての戦いを終えて心情を告白

W杯終了後、俊輔は代表引退を示唆した。不完全燃焼のまま代表でのキャリアを終えてしまうのだろうか 【Getty Images】

 30日、イングランド戦のピッチに彼の姿はなかった。指揮官が理想を捨て、守備ブロックを作って失点をゼロに抑える現実的な戦い方にシフトしたからだ。阿部勇樹をアンカーに置くため、俊輔は中盤からはじき出された。この時点では左足首の状態を考慮して岡田監督が休ませているだけかと思われたが、イングランド戦の成功によって「脱・中村俊輔」の新布陣採用が一気に現実味を帯びてきた。

 敏感な俊輔がこの流れに気づかないわけがない。彼は焦り、ザースフェー(スイス)での高地合宿中にも1人で黙々と練習した。6月2日に中澤佑二ら代表選手11人がアルプス観光に出かけたが、俊輔は残って自主トレをこなした。筆者が「山に来なかったね」と声をかけると「得るものあった?」と皮肉交じりな返事をしてきた。それほど精神的に追い詰められていたのだろう。

 それでも状況は変わらなかった。4日のコートジボワール戦も本田圭佑に代わって後半45分間に出たのみで、見せ場を作れなかった。そして10日の南アのベースキャンプ地・ジョージで行われたジンバブエとの練習試合で、指揮官は本田を1トップに据え、松井大輔と大久保嘉人を左右のウイングに配する形をテスト。これを本番で採ることが明確になった。俊輔の先発復帰の可能性は完全についえ、出場するにしてもジョーカー的な役割を担うことがハッキリした。
「おれはサブも経験している。セルティックの時もそうだし。流れを変える人って足が速いとか、ガンガン行くタイプだけじゃなく、リズムを良くする人も必要。ここまで来るとスタメンとかサブとかは関係ない。チームが良くなって勝てるようにしないとね」と彼は自分に言い聞かせるように話すしかなかった。

 南アに行く前から、俊輔は「チームのためにやる」と言い続けてきた。それは個人個人が自分のエゴを優先し、バラバラになってしまったドイツ大会の反省があるからだ。大会直前にスタメンを外された大黒柱が複雑な思いを抱くのは当然だが、それを表に出したらチームのムードが悪くなる。

 そこで、彼は話すことをやめた。以前はメディアに長々と対応し、対戦相手の分析まで詳細に語ってくれた冗舌な男が、報道陣を避けるようになった。24日の32回目の誕生日前日に「明日、誕生日だね」と声をかけても、「頑張ります」の一言。自分の中で必死に孤独な戦いを続けていたのだろう。
「おれがツンツンしていたら、チームの雰囲気が悪くなる。犠牲心を持たないと。チームが勝つことがすべてだからね。だけど、忍耐してて厳しいときもあった。できるだけしゃべりたくなかった。申し訳ないと思っていたけど、耐えるのでいっぱいいっぱいだったから」と彼はすべての戦いが終わった後、静かに言った。

最低でもAマッチ100試合出場を

 トルシエに外された02年のころはエゴイストだった俊輔が、ベンチで仲間を盛り上げ、結束力を高めようとしている。その姿には人間的成長が強く見て取れた。「本田はトップ下も右も1トップもできる。本当にいい選手はどんなポジションでもどんな戦術でもやれる」と、ポジションを争った後輩の実力を認める発言をしたのも、以前なら考えられないことだ。

 かつての大黒柱の献身的姿勢があったからこそ、日本は中立地でのW杯16強入りを果たせた。「こんなにいいチームで試合ができなくなるのが残念」とキャプテンマークを巻いた長谷部誠は何度も繰り返したが、俊輔らベテランがしっかりとチームを支えていたから、最高の一体感が生まれたのだ。
 その一方で、俊輔自身は最後まで痛々しかった。「サッカー人生で一番の試練かもしれない。この大会に懸ける思いはすごく強かったから。試合に出て違う経験をしたかった」という本音がすべてを物語っている。

 4度目のW杯挑戦も納得がいかないまま幕を閉じた。直接聞いてはいないが、本人は「4年後? もう、いいよ」と代表引退の意向を示唆したという。これだけの大きな痛みを味わったのだから、しばらく代表から遠ざかりたいという気持ちは理解できる。
 けれども、俊輔は「カズ(三浦知良)さんみたいに現役でいる間、ずっと代表を目指すのは格好いい」と話したことがある。誰よりも日の丸、そしてW杯にこだわった「サッカー小僧」が、そう簡単に代表から離れられるとは到底、思えない。コンディションが完全に戻り、かつての輝きを取り戻せれば、次の指揮官から強く復帰を求められるかもしれない。

「こんなにきつい、悔しい経験を次に生かさないと意味がない」と彼は言った。ならば、最低でもAマッチ100試合出場は目指してほしい。不完全燃焼のまま10年間の代表人生を終えるのは、あまりにもったいない。

<了>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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