もしも、J・P・アダムスが目覚めたら……

 ジャン・ピエール・アダムスが何者か、覚えている人はもうほとんどいないかもしれない。元フランス代表のセンターバックで、ニースで活躍しているころは背番号4の象徴のような選手だった。1982年にさほど困難とは思えない手術を行ったとき、アダムスは昏睡(こんすい)状態に陥ってしまった。彼はまだ生きているが、現在も眠ったままである。もし、アダムスが目覚めたとしたら、彼の愛したスポーツはその目にどう映るのだろうか。

 アダムスは1948年にダカール(セネガル)で生まれた。70年にフランスのニームでプロデビューしている。当時のニームは1部リーグ所属だった。アダムスの全盛期は73〜77年のニース時代、コンビを組んだセンターバックはユーゴスラビアの名手ヨシップ・カタリンスキだ。ニースにはプレーメーカーにジャン・マルク・ギウーもいた。後にアビジャンで育成スクールを創設して、現在のコートジボワール代表の基盤を築いた人物だ。アダムスは72〜76年の間にフランス代表で22試合に出場、パートナーは当時大変人気のあったマリウス・トレゾールである。メディアはアダムスとトレゾールのコンビを「黒い護衛」と呼んだ。そのころのフランスは弱かったが、センターバックに関しては高い評価を与えられていたものだ。

 残念ながら、アダムスの代表キャップはあまり伸びなかった。おりしもプラティニ世代が台頭、(78年の)アルゼンチン・ワールドカップ(W杯)出場を決めたころに招集されなくなった。数シーズン、フランスのトップレベルでプレーした後、アダムスはシャロンに移籍した。シャロンは中規模の都市だがサッカーでは全くの無名で、移籍時も3部リーグに所属していた。アダムスはシャロンに移籍せずに引退してもよかった。この時期の元選手たちがそうしていたように、スポーツ衣料の店やバーを開いても良かったのだ。しかし、アダムスは現役生活を続け、思いもよらぬ運命をたどることになる。

 82年5月17日、ひざの手術の際の麻酔ミスによってアダムスは深い眠りに落ちた。その日から、彼の妻は夫が奇跡的に目覚めるのを期待して寄り添い続け、生命を維持し続けている。時々チャリティーマッチが開催されているので、アダムスの生命を維持するための費用はねん出されている。もしもアダムスが目覚めたら、1982年の選手は何を見るのだろう。大きな変化に驚くのは間違いない。サッカーだけでなく、世界もかなり変わってしまっているのだから。

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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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