もしも、J・P・アダムスが目覚めたら……

 アダムスが昏睡状態になってまもなく、スペインではW杯が開催されている。もちろんアダムスはW杯を見ていないが、出場する24カ国については知っていたはずだ。その中には、彼の友人であるトレゾールがリベロを務めるフランスも含まれていた。ただ、この大会に参加した3つの国はすでに存在しない。ソビエト連邦、ユーゴスラビア、チェコスロバキアはその後に分裂している。
 セネガル生まれのアダムスは、アフリカ勢の台頭も見逃したことになる。スペイン大会ではカメルーンが初出場し、良いパフォーマンスを見せた。2010年にアフリカ大陸初のW杯が開催される、その布石となったのが82年のカメルーンだった。アダムスには、アフリカでW杯が行われるなど想像もできなかったはずだ。

 もしアダムスが目覚めたら、そのアフリカ初の開催国が南アフリカであることにビックリするだろう。82年の南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離)政策によって国際舞台から締め出されていた。新しいフットボールパワーはアフリカにとどまらず、アジアや北米にも広がっていることにも驚くはずだ。アダムスの時代、サッカーはヨーロッパと南米のためだけのスポーツだった。それが30年を経過して、真のワールドスポーツになっている。ヨーロッパと南米によるホーム&アウエーだったインターコンチネンタルカップがトヨタカップとなり、さらにクラブW杯になっているのだ。

 一方で家族的な雰囲気はまったく失われてしまった。アダムスの時代には、代表チームのトレーニングは公開されていて誰でも見ることができた。子供たちが目当ての選手のサインをもらうことなど、実に簡単にできたものだった。現在では、ほとんどの代表チームが独自のトレーニング場を持ち、さながら軍事施設のような厳重な警戒の下に練習を行っている。一般の人々がスター選手に接する機会など皆無と言っていい。

 フランス代表の状況も変わった。アダムスの時代のフランスはどんなチームにも負けそうだった。彼はキャリアの最後にデンマークと対戦し、そのときにミッシェル・プラティニが招集されている。プラティニのマジックによって、フランスは84年にヨーロッパを制して初タイトルを獲得するのだが、それも98年のW杯優勝によって忘れられかけている。セネガル生まれのアダムスにとって、フランスのW杯優勝も信じ難いだろうが、2002年にセネガルがベスト8入りしたことも同じぐらいの驚きに違いない。彼の代表デビューは72年で、対戦相手は「アフリカ選抜」だったのだ。ブラジル建国150年を祝うトーナメントでの試合だった。

 70年代、アダムスはフィジカルプレーヤーと呼ばれていたが、現在の選手たちの誰もが彼の2倍も走っているのを見て愕然(がくぜん)とするかもしれない。いつもリベロの5メートル手前にいて、敵のセンターFWについて走っていた彼にとって、相互カバーの戦術は興味深く映るだろう。
 偉大な選手の何人かも見損なった。ディエゴ・マラドーナは、彼が昏睡状態になった時期に偉大なキャリアをスタートさせていた。フリット、ファン・バステン、ジダン、ロナウド、ロナウジーニョ、クリスティアーノ・ロナウド、メッシ……アダムスは誰に一番心ひかれるだろうか。DFだったから、96年にバロンドール(欧州年間最優秀選手賞=当時)を受賞したマティアス・ザマーかもしれない。だが、アダムスは彼の時代のロマンティックな気風がなくなったことを嘆くのかもしれない。

 アダムスの時代、ロマンティックな攻撃サッカーのシンボルはウイングプレーヤーだった。今日ではほとんど消滅してしまった、あるいはずいぶん変化してしまったポジションである。攻撃サッカーに戻ることは、アダムスが目覚めるのと同じぐらい奇跡的なことなのかもしれない。

<了>

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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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