伝説になるカルロス・テベス
ロス・アンデスのエヘルシート、フエルテ・アパチェと呼ばれる地域は貧しく、極めて危険な場所だ。子供時代をそこで過ごしたテベスの回想は生々しい。
「危険すぎて夜へ外出できなかった。よく銃声が聞こえたし、翌朝に学校へ通う道ばたには死体が転がっていたことも何度かあった」
フエルテ・アパチェで生きていくには運が必要だ。だが、テベスはあまり運がいい方ではなかった。まず、5歳のときに熱湯をかぶってやけどを負った。やけどの程度はレベル3の重傷で、2カ月間も入院した。ボカ・ジュニアーズに在籍していたころ、クラブはやけどの跡を消す手術を勧めたが、テベスは断っている。やけどの跡も自分自身であり、ヒストリーだとテベスは言ったという。ただ、その手術には4カ月もかかるので、断ったというのが本当らしい。キャリアの途上にある選手にとって、4カ月の欠場は長すぎる。
プロフェッショナルとしては12歳からプレーしている。ポトレロと呼ばれる空き地での試合に出場し、小銭を稼いでいた。テベスの相手選手は倍も年齢が上の選手たちであった。ゴミ置き場の側にあるポトレロのグラウンドは、空き缶やガラス瓶が散乱している。テベスはいつも4つのプロテクターを着けていた。2つは通常のシンガードで、あとの2つはふくらはぎを守るため。足の前後に2つずつ防具を着けていた。
13歳、隣町のオール・ボーイズというクラブでプレーするようになった。テベスの名はすぐに知れわたり、ボカ・ジュニアーズのスカウトも目をつけていた。問題はオール・ボーイズがテベスを手放したがらないことだった。そこで、ボカはトリックを使ってテベスと契約した。ボカはニセの父親を作って契約したのだ。テベスの本名はカルロス・マルティネスで、テベスは隣の家の姓だったのだ。母親のトリナ・マルティネスはすでに離婚しており、カルロスの面倒はセグンド・テベスという人物がみていた。実の父親はギャングに射殺され(28発の弾丸を撃ち込まれた)、母親は薬物中毒になってしまったので、隣に住んでいたセグンド・テベスが5歳のカルロスを引き取ったのだ。ボカが契約したのは、この隣のテベス氏であった。
テベスの人生はサッカーなしてはどうなっていたか分からない。また、彼を引き取り、ボカとの契約でフエルテ・アパチェから逃がしたセグンド・テベス氏がいなければ、これもどうなっていたことか。実際、彼の“兄弟”の1人はマシンガンを手に銀行を襲撃している。サッカーがなければ、テベスもそうなっていたかもしれない。
「テベスは庶民の出身でハードワーカーであり、いつも汗びっしょりになってプレーする。メッシはとても若い時にバルセロナに渡ってしまったので、アルゼンチン人はメッシをヨーロッパ人だと思っている。外国人も同然で親近感がわかないようだ。その点で、テベスは完ぺきだ。マラドーナのように人々と感情を共有できるスターで、マラドーナより数奇な運命を経験している」
アルゼンチンのライバルであるブラジルのクラブに移籍しても、テベスの人気は落ちなかった。2004年の冬、ボカはバイエルン・ミュンヘンとACミランから移籍の申し込みを受けたが、金額が不十分として却下した。この時期、テベスはブエノスアイレスから出て行きたかった。パパラッチの標的にされていたからだ。ついに、彼は2000万ユーロ(当時のレートで約27億円)で自分を身売りする。テベスを“買った”のはMSIという会社で、社長はイラン人のキア・ジョーラブチアンと呼ばれていた。テベスと契約する数カ月前、MSI社はブラジルの名門コリンチャンスを買収していた。MSI社はテベスをコリンチャンスに移籍させ、そこでヨーロッパからの高額オファーを待った。3度の南米最優秀選手に輝いたテベスは(ペレ、マラドーナも成し得なかった偉業だ)、ヨーロッパ最大級のクラブに移籍するだろうと思われていた。ところが、移籍したのはプレミアリーグのウェストハムであった。
ウェストハムでは最終節に降格を免れる働きを示して救世主となり、マンチェスター・ユナイテッドへ移籍。マンUではルーニー、クリスティアーノ・ロナウドのスーパーサブという位置づけだったが、63試合で19ゴールを挙げ、C・ロナウドの移籍後には最も重要な選手の1人になるはずだった。だが、ジョーラブチアンは友人のチェキ・マンスール(マンチェスター・シティのオーナー)に4700万ユーロ(約63億5000万円)でテベスを売り渡した。この移籍は、“小さな次代のテベスたち”に、大金を逃すなという教訓を示したことになる。テベスは言う。
「わたしは飢えと悲劇の意味を知っている。そして、誰にもそれが起こらないことを望む」
<了>
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