子供の移籍
1990年代の最初のころ、少年の早期移籍はフランスの国内で行われていた。それ以前は、プロ選手だけがクラブ間の移籍を認められていた。それより以前は、プロ選手でも生涯1クラブは珍しくなく、移籍しても1回ぐらいのものであった。共産主義の国では、移籍自体が禁止されており、唯一旧ユーゴスラビアで28歳以上に限って許可されていた。
80年代にフランスで育成機関が立ち上げられ、非常に優秀だったので(今でも一部は優秀だ)、ヨーロッパで最も裕福なクラブは自然とフランスの若手選手に注目するようになった。スペイン、イタリア、特にイングランドはその恩恵に預かっている。20歳以上の選手を獲得するには多額の費用がかかる。そこで十代の選手に目をつけた。彼らの何人かがモノになれば、十分モトは取れるという理屈だ。
フランスで最も古いクラブの1つであるルアーブルは優秀なアカデミーを有している。2001年、ルアーブルは経営危機に直面したため、最も有望な2人のティーンエージャーを移籍させた。フローラン・シナマポンゴルとアンソニー・ルタレックだ。リバプールに移籍した2人はアンフィールドでは輝かず、シナマポンゴルがアトレティコ・マドリーで輝くまでには時間を要し、ルタレックは現在リーグ1(ル・マン)へ戻っている。2人の移籍は合意のもとに問題なく行われたが、3年後のシャルル・エンゾグビアの場合は事情が異なっていた。
17歳のエンゾグビアは、ニューカッスルのスカウト担当チャーリー・ウッズの勧めでトライアルを受けた。その結果、クラブは契約の決定をした。ところが、ルアーブルはエンゾグビアとプロ契約することに決め、ニューカッスルとの間に問題が生じた。ニューカッスルはエンゾグビアがまだプロ契約前であり、移籍金なしで契約できるはずだと考えていた。スポーツ裁判所の裁定の結果、ニューカッスルは通常の移籍金を支払うことになり、ルアーブルは少なくとも25万ポンド(約3800万円)の補償金を得た。
フランスの有望なティーンエージャーは、しばしばプレミアのクラブに移籍していった。ただ、ここ数カ月で状況は変わりつつある。かつては移籍金は支払われなかったり、少額の補償金が払われたりで、FIFA(国際サッカー連盟)の育成金規約を半ば無視した移籍が行われていた。2年前、16歳のガエル・カクタがランスと契約を交わし、その後、チェルシーがカクタを獲得したのだが、FIFAはいきなりチェルシーに2011年までの選手獲得禁止を申し渡した。カクタのランスとの契約を破棄させたという理由である。
驚いたチェルシーはスポーツ裁判所へ提訴しているが、裁定がどうなろうと世間は新しい時代になったことを認識した。FIFAとUEFAは同時に子供の移籍制限に乗り出したのだ。「子供の奴隷化」と彼らが呼ぶ状況を変えるつもりである。チェルシーに続いて、マンチェスター・ユナイテッドとマンチェスター・シティによるフランスのティーンエージャー獲得にも疑問が生じている。シティが獲得したジェレミー・エランのケースは、レンヌ側によれば「チェルシーよりも悪質」だという。プレミアで最も裕福なクラブが、フランスでも無名の少年をめぐって無理な移籍を行ったとは思えないのだが、裁定がどうであれ、少年選手の獲得が難しくなっていくのは間違いないところだ。
<了>
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