安藤美姫――「単純にして恐るべき姫君」=全日本選手権

青嶋ひろの

アクセルを除くすべての3回転を見せた安藤 【(C)坂本清】

 安藤美姫は、なぜこうも単純で、なぜこうも美しいのだろうか――。
 1カ月前のNHK杯、公式練習では4回転ジャンプも成功させる好調ぶりを見せながら、試合本番では3つのジャンプを転倒し、まさかの表彰台落ち。全日本選手権でも同様に、公式練習では絶好調だった。しかし、「今の彼女ほど練習での様子があてにならない選手はいない」と、記者たちは安藤美姫(トヨタ自動車)の本番での演技を、かたずをのんで見守った。結果はショートプログラム(SP)、フリーともに持ち味である3回転ルッツ−3回転ループを決め、さらにフリーは5種類7本の3回転をプログラムに入れ、ほぼクリーンに決める会心の演技。心では喝さいを送りながらも「NHK杯との差は一体何なのか」と私は頭を抱えてしまう。

メンタル復活で5種類7度の3回転

【(C)坂本清】

「NHK杯の時には『試合に出たい』って気持ちがまだ持てなくて。今回はその気持ちを取り戻せたから、練習どおり100%に近い力で滑れたんです」(安藤美姫)
 確かにNHK杯と比べると、試合を控えた彼女の表情は違っていた。特にフリー前の公式練習では、自分の音楽がかからずとも、たっぷり気持ちをスケートに入れながら、素晴らしいスピードで目の前を横切って行く。「あんな表情ができるのか」と驚くほど楽しげに、リラックスしながら、しかし真剣に滑る安藤美姫は、試合前の最もナーバスな時間に身を置きながらも、なんだか幸せそうにさえ見えた。
「今日のフリーは楽しかったです。まるでエキシビションみたいで! 滑る前に他の選手の演技をモニターで見て、いい演技には元気をもらったりもしました。リラックスして、楽しんで、試合に出るというよりアイスショーで滑ってるような気持ちだったんです」
 ニコニコとうれしげな表情でこう言われると、あ然とするしかない。誰もが最高の緊張感と最大の覚悟を抱いて向かう“大一番”全日本選手権を、こんなふうに迎えられる選手などいただろうか。本当に彼女ほど、「気持ち」がスケートの出来にそのまま表れてしまうスケーターはいない。

 この日は精神面を立て直しただけで、5種類7度の3回転を、少なくとも転倒することなく(コンビネーションのトゥループのみステップアウト)跳んでしまった。一流のジャンパーたちが居並ぶ全日本選手権でさえ、浅田真央(中京大中京高)はサルコウを、中野友加里(早大)や村主章枝(avex)はループを抜き、苦手なジャンプは避ける構成で挑む中、「苦手なジャンプなんてない」とばかり、アクセルを除くすべての3回転を見せてしまう。他の選手たちから見れば、気持ちさえのればこれだけ跳べてしまうという力は、うらやましくも脅威的だろう。

気まぐれなお姫様

【(C)坂本清】

 さらにNHK杯で見た同じプログラムが、これだけ変わるのか……と呆れるほど、フリーの「カルメン」は素晴らしかった。ジャンプが決まると、その勢いに乗って安藤の体も生き生きと動き始める。音楽に合わせてクイッとそらせる顎(あご)も、高々と天に突き出す腕も、誇りに満ちたカルメンの心模様そのものを描き出していく。安藤にとって「カルメン」は、頑張って挑戦するプログラムなどではない。彼女の心とカルメンの心情は、美しく寄り添っていたのだろう。「カルメン」こそが彼女の滑るべきプログラムなのだと思わせるほどだった。演技後、スケートに明るくない知人が「面白いな、これは」と、つぶやくのを聞いた。単純に、フィギュアスケートの試合として見ごたえがあっただけでなく、一般観客が心から感嘆するほど、作品として人を楽しませられる「カルメン」だったのだ。
 技術的にも、パフォーマンスとしても、全日本選手権の歴史に残る素晴らしい演技を「エキシビションみたいな気持ちで」彼女は見せてしまった。

 今の安藤は、機嫌が良ければ極上の笑顔を見せる、気まぐれなお姫様のようなものだ。精神が落ち着きさえすれば、笑顔だけでなく、とんでもないジャンプとこの上なく美しいパフォーマンスを見せてくれる、単純にして恐るべき姫君。世界選手権とともに四大陸選手権への派遣決定が発表されると、「四大陸選手権では4回転ジャンプに挑戦してみたいです」と上機嫌に宣言。確かにこのままの精神状態をキープすれば、4年ぶりの4回転成功も夢ではないだろう。あるいは前人未到のジャンプでさえも、まるで機嫌のいい子どものように、やすやすとやってのけてしまうかもしれない。私たちはこれからも試合の度に、安藤のジャンプの調子だけでなく、メンタルの調子にも注目しなければならない。まるで、美しいお姫様のご機嫌をうかがうように。

自分で立て直したことの価値

【(C)坂本清】

 しかし美しい姫君も、少しずつ変わりつつあるのかもしれない……そう思わせてくれる言葉を、この日は聞くことができた。
「NHK杯が終わってからは、自分が滑りたいって心の底から思うまでは、ちゃんとした練習をしなかったんです。ジャンプも跳ばず、ただリンクの上でリラックスしながら、音楽を聴いたり、友達とおしゃべりしたり。そうしているうちに、ジャンプも『跳びたいな!』って気持ちになれたから、まずは『カルメン』じゃなく、気に入ってる音楽で滑ったりして……。とにかく楽しんでスケートができるように、工夫をしてきました。そしたら、やっぱりスケート、楽しいな、全日本もあるから頑張ろうって気持ちに、だんだんなってきて!」
 一流のスケーター、一流のアスリートは、身体能力だけでなく、どんな状況でも試合に向かって気持ちを高めていける、自分なりのメソッドを持っているという。日本の選手でいえば高橋大輔(関大)のテンションの高め方、集中の仕方はすさまじいものがあるし、安藤が「カルメン」を滑るにあたって何度もビデオを見たというカタリナ・ビット(旧東ドイツ)も、本番で絶対ミスをしない強い精神力が一番の武器だった。
 どうやら安藤もまた、揺れる心を自らコントロールする術を、身につけつつあるようだ。試合に向かう不安も、スケートに対する気持ちも、きちんと自分自身で立て直して、全日本選手権を迎えた。
 これまではあまりに飛び抜けたジャンプの才能を持っていたために、そうしたメソッドを築かなくても、試合に勝ち続けてきてしまったのかもしれない。そのために、世界チャンピオンになって以降は大きな心の闇にも苦しんできた。しかしこの一年で体験した苦しみから自ら抜け出すことで、やっとひとつ、安藤美姫は彼女なりのメソッドをつかみつつあるのだろう。
 心の動きひとつで強さも美しさも増す姫君は、自らをコントロールする術を持つ、一流のアスリートになろうとしている。

<了>
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著者プロフィール

静岡県浜松市出身、フリーライター。02年よりフィギュアスケートを取材。昨シーズンは『フィギュアスケート 2011─2012シーズン オフィシャルガイドブック』(朝日新聞出版)、『日本女子フィギュアスケートファンブック2012』(扶桑社)、『日本男子フィギュアスケートファンブックCutting Edge2012』(スキージャーナル)などに執筆。著書に『バンクーバー五輪フィギュアスケート男子日本代表リポート 最強男子。』(朝日新聞出版)、『浅田真央物語』(角川書店)などがある

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