フランス黄金世代に「ありがとう」と「さよなら」を=フランス 0−2 イタリア

木村かや子

指摘される谷間の世代の力不足

 同時に、レ・ブルーが“黄金時代の終焉”という引導を渡される時もやって来た。

 2年前のW杯の後、すぐに世代交代を行っておくべきだったと言う者もいるが、それはしょせん結果論である。ドメネク監督の非をひとつ指摘するとすれば、センターバックの交代要員として、才能があり、すでに欧州のビッグリーグで経験を積んで結果を出しているローマのメクセスを招集せず、ブームソンのような、従順だが、潜在能力で格下と思われる安全パイを選んだことだろう。ずっと将来を嘱望され続けたメクセスも、もう26歳。中堅と呼ばれる域にいる、脂の乗った年齢だ。イタリアカップ決勝で負ったケガは軽いものだったため、監督が彼に入れ込んでいれば、招集はあり得たはずだった。

 しかし、今回の結果にそれが影響したかには確信が持てない。というのも、いまやフランスの問題は、すべてのポジションにかかわっている。老朽化したディフェンス陣の若返り。中盤の創造力不足の改善。そしてFWの決定力向上。中盤の問題と前衛の問題は連結している。対イタリア戦に出たクレールやアビダルも、サニョルやテュラムより安定した守備を約束したようには見えなかった。ベテラン2人の持つ才のきらめきを欠いていて、格下のイメージは否めなかったのだ。

 ギ・ルーに続き、ベンゲルも、若手とベテランの間の年齢層の力不足を指摘した。確かに黄金の世代の生き残りと、20歳そこそこのベンゼマ、ナスリ、ベンアルファら若手に挟まれた世代は、質がやや落ちる。それは、偉大なベテランたちに道を阻まれ、メクセスや、エブラ(27歳)、フラミニ(24歳)の年代に、これまで代表でチャンスが与えられなかったということも関係しているだろう。フランスが才能の宝庫であることは誰もが認めるところだ。しかし才能は、これから開花しなければならない。中間の年代で唯一、チームのリーダーとなれそうなのは、現在25歳のリベリーだ。

 06年W杯の際に、リーダーの腕章はジダンからリベリーに手渡されたように見えた。プレー面では、リベリーとジダンのタイプは大きく違う。しかし、わずか10分足らずで終わったこの試合の前に、リベリーは「ピッチの上で死ぬつもりで戦う」と言っていた。静かだが強い闘争心を秘めていたジダンの持っていた根性を、リベリーは持っている。今回トルコが見せた、絶対にあきらめない不屈の精神も、この代表に不足していたものかもしれない。

フランスは、新しい旅を始める

 雨の降りしきるチューリヒは陰鬱(いんうつ)だった。フランス対イタリアは、W杯の雪辱戦となるはずだった。しかし反対に、時の流れの速さを感じさせる、うら寂しい試合となった。この一戦を前に、ドメネクはこうも言っている。
「あの決勝は、2006年7月9日だった。2年がたった今、ほかの代表が台頭し、世界は大きく変わった。今、W杯のファイナリスト二者が、グループリーグ敗退の危機にさらされている。幸いなことに、ある日のファイナリストが、常にその後のファイナリストとなるわけではない。さもなければ非常に退屈だろう」

 88年にオランダが欧州を制してから、今の選手たちが育ってくるまでに20年の年月を必要とした。一時代が終わったとき、次の黄金時代が訪れるまでに10年以上の年月がかかることもある。再びトップに登るためには、一度、どん底まで落ちなければならないのかもしれない。うつむいてピッチを後にしたレ・ブルーはこのゆうべ、本当の意味で次の章に足を踏み入れたのだ。

 ところで、17日のイタリア戦に敗れた夜、ドメネクは「私はコミュニケーションのミスを犯した。私はただ、このユーロは2010年W杯のための世代の準備をする役に立つ、とだけ言うべきだったのだ」と語った。
 つまり、首にならない限り、監督本人に去るつもりはなさそうなのだ。しかし、いくらエメ・ジャケの支持を受けていても、この失墜の後に彼が生き残れるかは疑わしいところだ。本国では、今、やはり黄金の世代の一角だった、ディディエ・デシャンが後任監督に名乗りを上げていると早くもうわさになっている。

 いずれにせよ、故障で最後までプレーできなかったビエイラ、対オランダ戦で弱さを露呈したとはいえ、常にレ・ブルーを救ってきたテュラム、最後まで不可欠な男だったマケレレ、多くのゴールをたたき出すことはできなかったが、常に勝利を呼ぶ1本を決めてきたアンリらのベテランたちを、責めるべきではないだろう。彼らはフランスに、夢と続くべき道を見せてきた。今、これらの先輩たちに感謝をささげつつ、黄金世代の残像に、本当のお別れを告げるときが来たのである。

<了>

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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