フランス黄金世代に「ありがとう」と「さよなら」を=フランス 0−2 イタリア

木村かや子

ついに尽きたドメネク監督の悪運

結果を出すことで周囲の批判をねじ伏せてきたドメネク監督。悪運もついに尽きた 【Getty Images/AFLO】

「イタリア戦か……ついにやって来たね。でも残念ながら、いまや思っていたほど運命を分ける試合ではなくなってしまった。すでに勝ち点6を手にしたオランダは主力を休ませ、これまでのような気迫を持たないだろう。もちろん可能性はある。しかし、ルーマニアは問題なくグループリーグ突破を図るべく、この第3戦に勝つことが、運命のどこかに書かれている気がする」
 これが、対イタリア戦を前にドメネク監督が言ったセリフだった。

 2006年W杯で預言者を気取っていた彼の予言は外れたが、その一部は的を射ていた。フランス代表がついに過去の残像を捨て、もはや世界トップの実力ではないことを受けとめ、新しい一歩を踏み出すために必要だった今回の敗戦。これは、運命に書かれていたのだ。

 上記のセリフはルーマニア選手の怒りを買った。口を開けばその言葉が挑発と取られ、イタリア選手やメディアに毛嫌いされた。実際、選手時代のドメネクは、ピッチ上でやたら相手チームの選手に話し掛け、挑発し、脅すことで有名な悪玉DFで、“肉屋(残忍な男の意)”というあだ名を持っていたのだという。
 W杯ドイツ大会でファイナリストとなっても、ドメネク監督が地元メディアや国民から愛されることはなかった。彼らはただ、批判の口をつぐんだだけだった。05年、ベテランを排斥して臨んだW杯予選で敗退の危機にさらされ、ジダンの復帰によって首を救われたドメネク監督は、地元記者から「悪運の強いやつ」と言われ続けていた。彼はここまでずっと、出した“結果”によって救われてきたのだ。

 しかし同時に、この仕事に懸ける彼の情熱、つぎ込む努力と執着心は、ルメール、サンティニら前任者の比ではなかった。06年には気に食わないやつだと思っていたこの癖のある監督に、この点では敬意を表したい。大会の過程で何度もシステムや方針を変え、完全なカオスの中でユーロを終えたドメネク。いまや、やっと勝ち得た選手の信頼も失ったと、フランスの記者たちは言う。しかしドメネクは本気で、2010年W杯に向け、チームを築きたいと思っていたはずだ。

 ドメネクは試合後、フランスのテレビ局M6のカメラに向かって、同局でサッカー番組の司会を務める連れ合いのエステル・デニに結婚を申し込んだ。このことから見て、さすがの“肉屋”も精神的にかなり参っていたに違いない。ピレス、ジウリーからこのエステルを奪い取ったドメネクは、この女性問題が理由で2人を代表から外したと言われていた。采配(さいはい)は一流とは言えなかったが、あの“ドメネク語録”がもう聞けなくなるかもしれないと思うと、ちょっぴり残念だ。

崩壊した堅固な守備

 ユーロ本大会前のフランス代表の問題は、守備は堅固だが、攻撃陣が作ったチャンスを得点に変えられない、実現力の欠如だった。ルーマニアとの第1戦でのフランスは、守備は堅固だったものの、攻撃の効率の悪さを責められた。多くの批判を浴び、攻撃を意識して臨んだ対オランダ戦では、攻撃のアクションこそより活発だったが、これまで堅固だった守備が突如、多くのミスを犯して崩れた。

 もっとも、攻撃を仕掛けてゴールチャンスを生み出しながら、チャンスを得点に変えることができずに苦しむという現象は、今に始まったことではない。06年W杯の“魔法の力”がまだ残っていたユーロ予選の対イタリア戦を例外に、今大会の予選を通じて、フランスは弱小国相手にしか大量点を取れていなかった。W杯準々決勝のブラジル戦でも、準決勝のポルトガル戦でも、得点はわずか1点だけだった。これはフランスにとって、もはや慢性化した傾向なのだ。

 それでも彼らに勝ち点をもたらしていた守備の堅固さが崩壊した時、フランス代表自体が空中分解した。しかし、運が悪かったのは、守備の弱体という問題が、ユーロ本大会に入ってから明白になったことだった。守備陣の高齢化からすれば、事前に予想できたことではあった。だが、予選を通してベテランたちが若手に格の差を見せつけつつ、ゴール不足のチームを支え続けていたことを考えれば、監督が実力で上回るベテランから手綱を奪わなかったのは、そう不思議なことではない。

 大会直前の準備試合で、テュラムが経験の価値を感じさせるいいプレーをしたこと、今回役立たずに終わったゴミスが、ワンチャンスをつかむ見事な腕前を見せたことは、ある意味でアンラッキーだった。ついに、ドメネクの悪運が尽きる時がやって来たのだ。

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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