由規、5年ぶり登板に周囲も特別な思い 待ち遠しい神宮のお立ち台に上がる日

菊田康彦

「良い緊張」で5年ぶり1軍マウンドへ

久々の1軍登板は6回途中6失点で黒星となった由規 【写真は共同】

 およそ5年ぶりに上がった本拠地・神宮球場のマウンド──。そこから見る光景は「夢のようだったっていうと大げさかもしれないですけど、そのくらいの感覚がありました」と、東京ヤクルトの由規は振り返る。

 復活の舞台として用意されたのは7月9日の中日戦。昼間は激しく降り続いた雨も、まるで由規の新たな門出を祝うように、試合前にはすっかり上がっていた。クラブハウスで待機している間は「呼吸が浅い」と感じるほど緊張していたのが、グラウンドへ足を踏み入れた瞬間にファンから大きな拍手と歓声で迎えられると、その緊張が「良い緊張」に変わった。

 慣れ親しんだ背番号11のユニフォームに身を包み、割れんばかりの「ヨシノリ」コールの中、まっさらなマウンドへと小走りに向かう。公式戦で初めてバッテリーを組む中村悠平のサインにうなずいて、ノーワインドアップから投げ込んだ初球は──。
 
「ムーチョ(中村)と話をして決めてました。『入りはストレートっしょ!』って」(由規)

 その146キロのストレートが低めに外れると、2球目も同じ146キロのストレートがボールになってカウントは2ボール。サインに4度首を振って投じた3球目、147キロのストレートを中日のトップバッター、大島洋平にライト線に弾き返され、ノーアウト二塁。ここで三塁手の川端慎吾が、すかさず由規のもとに足を運んだ。

「カツさん(野村克則バッテリーコーチ)にも『だいぶ緊張してるみたいだから頼むな』って言われてたんですよ。内野陣もみんな若いですし、アイツが(最後に)投げてた時に守ってたのは僕しかいないですしね。だから、すごい懐かしい感じがしました」

「右肩の張り」から始まった約5年の戦い

 由規が最後に1軍で投げたのは2011年9月3日の巨人戦(神宮)。川端が言うとおり、その試合に先発出場していた野手で、この日もスタメンに名を連ねていたのは川端だけ。その試合で7回2失点、自らタイムリーも打って7勝目を挙げたのが、当時21歳で先発メンバー最年少の由規であった。だが、その1週間後──。

「休めば治ると思ったんですが、なかなか戻らなかったんで……。そんなにひどいとは思っていないんで、最短の10日で戻れるようにしたいです」

「右肩の張りで登録抹消」と当初は伝えられていた。本人も言っていたように、復帰にここまで時間がかかるとは誰も想像していなかった。しかし、これが5年近くにも及ぶ肩痛との戦いの始まりだった……。

ラストチャンスの2016年

 13年4月には右肩のクリーニング手術を決断。「手術してからが本当の勝負だと思うんで、しっかりリハビリをして1日でも早く試合で投げられるようにしたいと思います」と話したが、そこからの道のりがまた長かった。

 14年6月14日のフューチャーズ戦(戸田)で実戦復帰を果たすも、14年、15年と1軍登板はなし。丸4シーズン1軍のマウンドに上がっていない由規を待っていたのは、育成選手としての契約だった。
 
「僕の中では去年(15年)で切られてもおかしくないなっていう覚悟もありましたし、そういう意味でもう1年チャンスをもらえたんだなっていう気持ちで(育成)契約しました」

 こうして、かつて161キロを記録し、大谷翔平(北海道日本ハム)に抜かれるまではNPB史上日本人最速を誇った右腕は、プロ9年目のシーズンを背番号121で迎えることとなった。契約時に小川淳司シニアディレクター(SD)からかけられた「来年(16年)で判断させてもらう」との言葉は、今シーズンがラストチャンスになることを意味していた。

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著者プロフィール

静岡県出身。地方公務員、英会話講師などを経てライターに。メジャーリーグに精通し、2004〜08年はスカパー!MLB中継、16〜17年はスポナビライブMLBに出演。30年を超えるスワローズ・ウォッチャーでもある。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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