柿谷曜一朗、模索する自分自身のあり方 スイス移籍から1年4カ月、現在の胸中

元川悦子

2試合ぶりのベンチ入りも出番はなし

柿谷が苦境に立たされている今の思いを素直に吐露した 【元川悦子】

 10月31日のスイス・スーパーリーグ第14節・FCファドゥーツ戦。FCバーゼルの背番号14をつける日本人アタッカー・柿谷曜一朗は、10月18日のFCシオン戦以来、リーグ戦2試合ぶりのベンチ入りを果たした。この日の敵は、7月19日の開幕戦で、彼自身が記念すべき今季初ゴールを挙げたゲンのいい相手。リヒテンシュタインのファドゥーツへと乗り込んだ柿谷は、久しぶりの出場に強い意欲を燃やしていたはずだった。

 だが、彼が担うはずの4−2−3−1のサイドアタッカーのポジションは、右にスイス人MFダヴィデ・カラ、左にアイスランド代表MFビルキル・ビャナルソンが先発し、90分間プレー。柿谷がピッチに立つ機会は訪れなかった。チームは2−1で勝利し、リーグ戦3連勝で首位の座をガッチリキープしたが、彼自身はこれでリーグ戦4試合続けて出場機会がないままだ。

 柿谷は10月28日のスイスカップ・ラウンド16でムッテンツ(5部リーグに相当)との一戦に久しぶりにフル出場したが、ゴールという明確な結果でアピールすることはかなわなかった。それも、今回のファドゥーツ戦の出番なしにつながったのかもしれない。

 今季はここまでリーグ戦4試合出場1得点。スイス挑戦1年目となった2014−15シーズンもリーグ14試合出場3得点にとどまっており、1年4カ月にわたってコンスタントにピッチに立てていないのが柿谷の実情だ。

「これだけ試合に出られないのは、セレッソ大阪で新人だった17〜19歳くらいの頃以来。最近、あの頃のことをメッチャ思い出すねん。居残り練習をやって、走りとかをやらされたりを1回経験してるから(笑)。ただ、そこで文句を言っても、先には何もつながらない。それもよく分かってる。だからこそ、1日1日をちゃんとやることが大事。俺なりに若いやつを励ましてるよ」

 柿谷は苦境に立たされている今の思いを素直に吐露した。

苦しかった前監督との確執

14年7月、パウロ・ソウザ監督(当時)と入団記者会見に臨んだ柿谷 【写真は共同】

 13年8月の東アジアカップ(韓国)で3ゴールを挙げて得点王に輝くとともに、日本に同大会初優勝のタイトルをもたらしたことが評価され、一気に日本代表の座をつかんだ柿谷。14年ワールドカップ・ブラジル大会のメンバーにも名を連ねたが、コートジボワール戦とコロンビア戦の終盤にわずかな時間出場しただけ。思い描いていた活躍には程遠い結果となってしまった。

「4年後に向けて思いが強くなった選手はいっぱいおると思うし、僕もその中の1人。そのために今後、何をしていかないといけないのか、自分が強くなるためにどうすべきなのかを一人一人が考えていく必要がある。こういう世界の舞台で、試合に出て勝っていくこと。それをしたい」という言葉をブラジルで残した翌月、彼はバーゼルへの移籍を決断。大きな飛躍を期して日本を旅立った。

 新天地では14年8月2日のリーグ戦第3節・FCトゥーン戦で公式戦デビューを果たし、続く9日のFCチューリヒ戦で初得点を記録するなど、順調な一歩を踏み出したかに思われた。ところが移籍から2、3カ月が経過した頃から、当時指揮を執っていたパウロ・ソウザ監督(現フィオレンティーナ)との確執が表面化。柿谷は戦力外のような扱いを受けることになってしまう。

 特別なきっかけがあったわけではないようだが、「パウロ・ソウザ監督は非常に頑固な性格で、少しでも意に沿わないと感じたらすべてを否定してしまいがちなタイプ」と地元メディアからも評されていただけに、小さなことが積み重なった結果なのだろう。

 柿谷は難しくなった状況を少しでも改善しようと、何度か自ら意見を言おうと試みた。チーム内で影響力のあったファビアン・フライ(現マインツ)もしばしば援護射撃をしてくれて、監督の意向が多少なりとも変化した時もあったという。だが、根本的な問題は最後まで解決されず、海外挑戦1年目は幕を閉じてしまう。これには彼自身、不完全燃焼の思いでいっぱいだったはずだ。

「監督から好意的に見られていないなと一番感じたのが、昨季リーグ終盤に久しぶりに試合に使われた時。試合後、足が張るんでメディカルスタッフに見てもらったことがあったんやけど、監督もコーチも誰1人として自分の状態を聞きに来なかった。気づいたら次の試合のメンバーからも外されてて……。あれはショックが大きかったですね(苦笑)。

 練習もトップチームに合流したユースの選手と一緒にやることが多かった。周りも『早く移籍した方がいい』って勧めてくれたけど、俺はここでやるって決めてきたわけでしょ。だから練習でも練習試合でも手を抜くことなんか一度もなかった。全部ちゃんとやったつもりですけどね」と柿谷は苦しかった1シーズン目をあらためて述懐した。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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