柿谷曜一朗、才能を解き放つため欧州へ セレッソに別れを告げ新たな挑戦に挑む
学生のころから非凡な能力を見せていた
4歳から育ったセレッソに別れを告げ、スイス・バーゼルへ完全移籍をする柿谷 【写真:松岡健三郎/アフロ】
ただ多くのC大阪ファンにとっては、覚悟の別れだったに違いない。遠からずこの日が来るであろうことを、柿谷は昨季の時点で感じさせていたし、それこそ多くのファンは16歳で彼がトップチームのピッチに立ったときからその才能が国内に収まりきらない可能性も感じていたはずだ。その意味では遅い別れだった。そういう言い方も、できるかもしれない。
中学生のときから高校生に混じって試合出場を重ねていた柿谷のプレーは、当然ながら当時から非凡なモノを感じさせた。遊び心あふれるプレーは全国大会になっても物怖じすることなく、センターサークル付近から突然ゴールを狙って相手GKの度肝を抜いて観衆のどよめきを誘うと、イタズラを成功させた悪ガキのようにニヤリと笑う。そんな選手だった。「久々に10番の似合う“ファンタジスタ”が出てきたな」。14歳の彼を見て、そんなことを思ったのを覚えている。もちろん柿谷と言えば「8番」なのだが、もっと漠としたイメージとして、彼に「10番」の資質を感じたわけだ。
Uー17代表で「10番」タイプの1トップも経験
2007年のU−17W杯では故障もあってフル稼働とはいかなかったが、3試合で2得点を挙げた 【写真:アフロ】
2007年のU−17ワールドカップ(W杯)においては、故障もあってフル稼働とはいかない上、チームは惨敗模様という状況で2得点を奪取してみせた。ただ、当時の彼はまだ「ストライカー」だったわけではない。たとえFWで起用されても2列目に落ちてくることを好んでいたし、そもそも2列目に配されることのほうがずっと多かった。いまと違って、スーパーシュートを決める一方で淡泊なシュートミスも非常に多く、フィニッシャーとしての「質」はまだまだ低かった。
より正確に言えば、彼のような「10番」タイプの選手はトップ下で最も輝くと思われていたし、それが自然な時代でもあった。いまにして思えば城福監督は敏感に時代の先を感じていたのだと思うが、FCバルセロナの台頭とともに「屈強なFWに最前線を託す」というセオリー自体が少しずつ崩れていく。
169センチのリオネル・メッシが最前線を任されるようになり、世界的にも軽量級の選手を1トップに置くことが1つのムーブメントになった。それは今回のW杯を見ていても、1つの傾向として読み解くことができる。今年の春に柿谷へインタビューをさせてもらった際に、そのことを少し突っ込んでみた。意外なほど彼も「時代」のことは強く意識していて、「メッシやクリスティアーノ・ロナウドのような選手がこれだけ点を取っている時代」という言葉で、かつてサイドや中盤で「魅せる」ことを求められたようなタイプの選手が、フィニッシャーとしての質と役割を求められるようになったことを感じていた。