J2で特異な存在、東京ヴェルディの挑戦 躍進の理由はチームバランスの妙
東京Vの土壌
5連勝を収め、一時期3位にまで順位を上げた東京V 【写真:アフロスポーツ】
試合前日は通常通り、セットプレーの対策を入念に行い、全体練習終了。個人練習に移った。
攻守の要である中後雅喜、7月に加入した高木善朗、中盤の底に定着したルーキーの三竿健斗はミドルシュートの練習を始めた。低く抑えの利いたシュートが、GKの佐藤優也を襲う。佐藤は次々と浴びせられるシュートを防ぎ、キャッチを試みたボールを前にこぼして悔しがった。
特に高木善はミートが巧く、鋭いシュートを放っていた。佐藤はこう語る。
「コンパクトな脚の振りで、威力のあるボールが来る。単に強いシュートが隅に飛んでも、対応はできるんです。タイミングさえ合わせられればね。ワンテンポ早く、タイミングをつかみにくいシュートが一番厄介」
佐藤はキックのモーションを示しながら、丁寧に解説してくれた。なるほどね。軸足を踏み込み、ぐっと力をためて蹴るシュートはさほど怖くないんだ。
J2第29節の徳島ヴォルティス戦、東京Vは0−1で敗れ、連勝が5で止まった。失点はPKで、佐藤は鮮やかなシュートストップで何度も窮地を救っている。
「結局、同じなんですよ。決定機を3、4回止めようが、負けは負け。たとえPKによる失点であっても同じことです」
この自らに課す勝負の厳しさは、東京Vの土壌に乏しいものである。敗戦後のコメントは、プレーの質を高めることに言及する選手の方が多数派だ。
アカデミー出身選手と外部選手の融合
さまざまな角度からサッカーと監督業を見つめてきた冨樫監督 【写真:築田純/アフロスポーツ】
冨樫剛一監督はチームのベクトルを定め、優れたマネジメントの手腕を発揮している。あけっぴろげな性格で、練習はすべて公開。「ひとりでも多くの人に見てもらい、興味を持ってもらうことが大事」という想いからである。育成畑を長く歩む一方、他の業務も経験した変わり種の指導者だ。
冨樫は東京Vの前身である読売クラブで育ち、右も左も日本代表というヴェルディ川崎の黄金時代を知る。選手としては花咲かず、1997年、当時JFLのコンサドーレ札幌で現役を退いた。26歳の若さだった。98年、ヴェルディ川崎(当時)のスクールコーチとして指導者のキャリアをスタートさせた。
99年、冨樫はトップチームのマネージャーへの異動を命じられた。遠征の手配や用具の管理など、裏方としてチームを支える仕事だ。マネージャーを3年間務め、02年は札幌からオファーがあり、柱谷哲二監督をコーチとして支えた。03年、東京Vユースのコーチに就任。そこで、「これからは積極的に外部から新人選手や高校生の素材を引っ張ってくるべきです」とフロントに進言したところ、「だったら、君がやれ」とスカウト担当に任命され、二足のわらじを履くことに。翌年からスカウト専任となり、またも指導の現場から遠ざかった。当時、獲得競争に敗れた思い出深い選手に、原一樹(ギラヴァンツ北九州)と江添建次郎(SP京都FCコーチ)の名を挙げる。
06年、東京Vジュニアユースの監督に就き、以降は継続して育成の仕事に携わった。2010年から2年間は、川勝良一監督のもとヘッドコーチを務めている。昨年9月、東京VのJ3降格危機に指揮を託され、トップの監督経験はまだ1年にも満たない。
このような曲折を経ており、少なくとも指導者として衆目の一致する才器とは見られていなかった。
「子どもの頃から、なんでもサッカーに結びつけて考える癖があった。だからマネージャーやスカウトの経験が無駄とは思わなかったですね。きっと指導の現場に役立つことがあるに違いないと」と、冨樫は語る。指導者の仕事に強いこだわりを持つ人からすれば、クラブに都合よく使い回されていると見る向きもあったが、そうした日々のなかで蓄えたものは言葉の端々にうかがえる。
「僕らは一切のストレスを感じることなく、試合に向けて集中できている。それを当たり前と思ってはいけない。たくさんの人たちが準備し、支えてくれるおかげなんです」
さまざまな角度からサッカーと監督業を見つめてきたことが、冨樫の血肉となっているのだろう。