【コベルコ神戸スティーラーズ/震災から30年 特集企画part.2】 OBが語る、阪神・淡路大震災が神戸製鋼ラグビー部にもたらしたもの、地元・神戸への思い
瓦礫が積まれた灘浜グラウンド(現コベルコ神戸スティーラーズラグビーグラウンド)でトレーニングを行う部員たち 写真提供:スポーツニッポン新聞社 【コベルコ神戸スティーラーズ】
コベルコ神戸スティーラーズの前身である神戸製鋼ラグビー部は、震災の2日前に新日鉄釜石の大記録に並ぶ日本選手権7連覇を達成したばかりでした。
チームは震災からどのように立ち上がったのか、その時支えになっていたものとは。
当時、選手として活躍した現在のスタッフに当時の状況や心境を振り返ってもらいました。
7連覇の喜びから一転
どぉーーん。
地鳴り、突き上げるような縦揺れの後、激しい横揺れ。
何かが崩れるような音があたり一面に響き渡りました。
現在、チームのアドバイザーとしてコベルコカップ等の普及事業に携わるV7戦士の萩本 光威氏は、神戸市東灘区にある家族向け社宅の4階で被災。
「優勝した15日は東京で宿泊し、16日の昼頃、神戸へ帰ってきました。夜、何人かの部員の家族と一緒に自宅で祝勝会をして、明日は『会社で優勝報告会やな』という話をしていたんです」
7連覇という偉業を成し遂げ達成感、多幸感に浸っている中で突然の大地震。
萩本氏が暮らす社宅は幸い建物に大きな被害はなかったのですが、外へ出てみると10階建ての社宅の1階部分が崩壊。その建物に堀越 正巳氏(現立正大学ラグビー部監督の)が奥様と住んでいたそうです。
「堀越はその日埼玉の実家にいたのですが、奥さんが1人でいたので、ほかの部員たちと一緒に探しにいって助け出しました」
練習グラウンドの最寄駅「阪神御影駅」から「西灘駅」の8箇所の高架が落ちて、石屋川車庫が崩壊しました。写真提供:神戸新聞社 【コベルコ神戸スティーラーズ】
地域の方々とともに救出活動
「ドーーンという音で目が覚め、その後、ガーーーッと揺れて。不謹慎ですが、戦争でも始まったのか!?と思ってベッドから飛び起き、廊下に出ました」
藤TMと同じように揺れに驚いた部員たちが廊下に集まっており、「ただ事ではない」と直感的に感じた彼らは様子を確かめに外へ。すると独身寮や社宅の周りにある多くの民家が崩れ落ちていました。
「『助けて!』という声や悲鳴があちこちから聞こえてきて…。社宅に住んでいる部員たちも集まってきて、地域の方々と一緒に瓦礫の中から人を助け出しました」
その日の夜は部員らで相談し、近くにある関連会社のテニスコートに自家用車で避難。藤TMの車には当時にしては珍しくテレビが付いていたこともあり、徐々に状況がわかってきたそうです。朝から救助活動を行ってきた部員たちは「とりあえず何か食べるものを」と思い、同期の吉田 明氏(現大阪経済法科大学ラグビー部監督)が保存していた大量のレトルトカレーと、萩本氏らが社宅から米を持ち寄り、火を起こしてカレーを作りました。
「もともとは僕らとその家族のためにカレーを作っていたのですが、炊き出しと勘違いされた方が大勢来られたので、僕らは食べずに皆さんにお配りしました」
なんとか17日を乗り越えた翌日、近くのガスタンクからガス漏れした可能性があるという情報が入り、部員たちはそれぞれ実家や知人の家に避難することになりました。
大阪に実家がある藤TMは
「道路がめちゃくちゃ混んでいて車は使えなかったので、阪急西宮北口駅から東へ向かうことができるという情報を得て、みんなと一緒に駅まで歩くことにしたんです。そしたら前日に周囲の様子を見に大阪の実家へ行っていた弘津さん(現チームディレクター、以下弘津TD)と出会って。弘津TDは大量のおにぎりを原付バイクの荷台に積んでいて、前日から何も食べていなかったのでありがたかったことをよく覚えています」と述懐。
独身寮から南東へ向かった阪神高速は倒壊 写真提供:神戸新聞社 【コベルコ神戸スティーラーズ】
ラグビーよりも、まずは街の復旧を
「本社ビルは全壊しましたが、私の部署がある社屋は倒壊を免れて、そこが一時的に緊急対策本部になりました。当時JR岩屋駅から海へと向かう一帯は神戸製鋼所の工場だったこともあり、岸壁に簡易トイレや食料品といった救援物資を積んだ船が続々とやってきました。物資の仕分けをしたり、簡易トイレを組み立てたりして、避難所に持っていくという作業をしていましたね」
本社で人事部に所属していた弘津TDや神戸製鉄所で経理の業務を担っていた藤TMも泊まり込みで物資の運搬などの作業を行っていたそう。
弘津TDは
「震災直後はラグビーどころではなく、『まずは街の復旧を』という気持ちで作業をしていました」と当時の心境を吐露。
藤TMは高槻市にある実家からバイクで片道4時間かけて通勤し、救援物資を運搬。避難所に行く時には大阪から持参した大量のおにぎりを持参していたそう。
また、地域の治安が悪くなっていたこともあり、ラグビー部で自警団を結成し、見守り活動も行っていました。そんな選手たちには地域の方々から「頑張ってや!」「次は8連覇やな!」といった声がかけられたと言います。
大きな被害を受けた神戸製鋼所本社ビル 【コベルコ神戸スティーラーズ】
本社ビル3号館の内部の様子 【コベルコ神戸スティーラーズ】
ラグビー部は会社のシンボル
現在も練習グラウンドとして使用されている灘浜グラウンド(現コベルコ神戸スティーラーズラグビーグラウンド)は、液状化現象により、使用できる状態ではありませんでした。
本社ビルは倒壊し、神戸製鉄所の第3高炉は損壊し緊急停止するなど、神戸製鋼所は約1,000億円を超える甚大な被害を受けました。
「廃部になるのではないだろうか…」と不安に駆られていたそうです。
震災から1ヶ月程経ったある日、部員たちへクラブハウスに集合するよう連絡がありました。
すると、当時ラグビー部の部長を務めていた深澤 正弘氏が
「ラグビー部は会社のシンボルです。ラグビー部は潰しません」と明言。
部員たちはその言葉に安堵したといいます。
グラウンドに関しても日本国土開発がシーズンに間に合うよう復旧工事に協力してくれることになりました。
液状化し使用不能となった灘浜グラウンド(当時)提供:日刊スポーツ 【コベルコ神戸スティーラーズ】
瓦礫の隣でのトレーニング
6月頃にはグラウンドの半分が使用できるようになりましたが、敷地には瓦礫が山積みになっており、マスクを付けてのトレーニングになりました。
「マスクをしたり、口元にタオルを巻いたりして練習していたんですけど、苦しくて、結局、何も付けずに走ったりしていて。練習後、顔をタオルで拭いたら、タオルが真っ黒になっていましたね」と萩本氏は今では考えられない過酷な練習状況を振り返ります。
チームとして全体練習ができたのは、8月、北海道・網走で行われた夏合宿から。例年よりも長めの時間を取って行われた夏合宿を経て、チームは9月からの関西社会人リーグに臨みました。
この年、副将としてチームを率いることになった弘津 英司チームディレクター(左端)の姿も。右端はキャプテンを務めることになった堀越 正巳氏 写真提供:スポーツニッポン新聞社 【コベルコ神戸スティーラーズ】
神戸のために…
「練習再開後もなかなか気持ちが入らなくて、地に足がついていないような感じだったのですが、地域の方々から『頑張れ』と応援していただいていましたし、その期待に応えたいと思いながら練習をしていました。練習拠点が3箇所に分かれていて、全体練習がほとんどできないなど、環境的にはかなり厳しかったですが、ラグビーを通じて地域の方々に元気や勇気を与えたいと思い、シーズンに臨んだことをよく覚えています」と声援を励みに気持ちを奮い起こしたそう。
萩本氏は
「街の方々から神戸製鋼がラグビーで頑張っている姿を見たいと言われて、その言葉が我々の原動力になりました。その年、プロ野球のオリックスが『がんばろうKOBE』を合言葉にリーグ優勝をしていたこともあり、神戸製鋼も続いていこうという空気になっていました」とチームは一致団結していたと言います。
藤TMは
「応援してくれている神戸の人たちのために頑張らないといけないという思いが強くありました。それと、会社が早々にラグビー部の存続を宣言してくれて感謝しかありませんでした。会社のためにも結果を出して恩返ししたいという気持ちもありました」と語ってくれました。
「神戸のために頑張ろう!」
強い気持ちで臨んだ関西社会人リーグは全勝。全国社会人大会の予選プールでも3戦全勝し、決勝トーナメントに進出しましたが、準々決勝のサントリー(当時)戦で20-20の同点となり、トライ数で上回られて敗退。前人未到の8連覇の夢はついえてしまいました。
当時の様子を語ってくれた現在、チームのアドバイザーとしてコベルコカップ等の普及事業に携わる萩本 光威氏 【コベルコ神戸スティーラーズ】
阪神・淡路大震災が発生した前年の1994年に明治大学から入部した藤 高之チームマネージャーは「入部当時はこれから7連覇、8連覇と続けていけるものだと思っていましたね」と振り返ってくれました。 【コベルコ神戸スティーラーズ】
もがき苦しんで掴んだ復活V
震災以降、選手補強がままならず、苦しいチーム状況が続いていました。そこで1987年度から敷いていた監督やヘッドコーチを置かないキャプテン制を廃止し、1998年度、萩本氏をヘッドコーチに据えて復活を目指すことにしました。厳しさを植え付けるため、全員で1日中モールを押し続けるなど、きつい練習を行い、そのシーズンチームは日本選手権準優勝。翌シーズンから2年連続で日本選手権優勝を達成しました。
萩本氏は
「震災がなければ、メンバーが揃っていたこともありますし、実力的にも8連覇を達成できたんじゃないかなと思います。1995年度の主将に就任した堀越は、震災を言い訳にしたくないと言っていましたが、全体練習ができないなど、震災がチームに与えた影響は大きかったです。また、震災後、選手がなかなか取れなかったことはチームの空洞化に直結し、その後の低迷につながりました」と語ります。
弘津TDは
「震災を言い訳にしたくないと思い頑張ってきましたが、なかなか勝てなくて、もがき苦しみました。だから頂点に返り咲いた時は心から嬉しかったですね」と5年ぶりの王座は忘れない瞬間だったと言います。
2000年1月30日、ワールドを破って5年ぶりに全国社会人大会で頂点に立った神戸製鋼ラグビー部 【コベルコ神戸スティーラーズ】
震災を経験したチームとして
「平尾(誠二)さんが震災の時にしんどい思いをしたからこそ、行動しないといけないと言われていて。それに、震災の時、全国各地から支援をいただきました。その恩返しの意味もあります」
2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の際は、翌年の2005年6月12日にビッグスワンにて「新潟県中越大震災復興支援チャリティーマッチ」と銘打ち、クボタスピアーズ(当時)と練習試合を行い、収益金をすべて寄付しました。
2011年2月22日、ニュージーランド・クライストチャーチで発生したニュージーランド・カンタベリー地震では新品のラグビーウェアを現地へ。
同年3月11日に発生した東日本大震災では、震災から4ヶ月後に開催された「ラグビーフェスティバル」に新日鉄釜石で活躍した松尾 雄治氏をお招きし、故・平尾 誠二GMとのトークショーを実施、同時にチャリティーオークションも行いました。さらに2012年に岩手県釜石市を訪問し、釜石シーウェイブス(当時)の選手と一緒に瓦礫撤去作業やラグビー教室などを開催。
最近では、2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震において「被災地メッセージ動画」を制作し公開するほか、義援金活動を行うなど、支援活動は数え上げれば枚挙にいとまがありません。
「被災地への支援活動はチームの文化として根付いています」と藤TM。
2011年7月、ラグビーフェスティバルで行った平尾 誠二GMと松尾 雄治氏のトークショーの様子 【コベルコ神戸スティーラーズ】
2011年3月19日に開催のファンクラブ会員限定チャリティー交流会では東日本大震災とニュージーランド・カンタベリー地震への義援金活動を行いました。 【コベルコ神戸スティーラーズ】
2011-2012シーズンから試合会場やイベント会場などで、東日本大震災復興支援チャリティーリストバンドの販売を行いました。 【コベルコ神戸スティーラーズ】
令和6年能登半島地震への義援金活動の様子 【コベルコ神戸スティーラーズ】
これからも神戸とともに歩んでいく
「震災から30年という節目を迎えるシーズンにチームディレクターに就任し、巡り合わせを感じます。震災を経験し、歴史を積み上げてきて、今のコベルコ神戸スティーラーズがあります。震災直後、到底ラグビーができる状況ではない中で、周囲の理解や地域の方々からのサポートがあり、ラグビーを続けることができました。これからもその時の感謝の思いを忘れずに、チームは神戸とともに歩んでいきます」
そう語り、震災を伝え続けることはチームの使命だと言います。
その思いは、しっかり後輩たちに受け継がれています。
1月19日、チームはホストゲームとなるNTTリーグワン2024-25 第5節VS浦安D-Rocksにて「1.17メモリアルジャージ ~阪神・淡路大震災30年~」を着用し試合に臨みます。
最後に弘津TDは静かに決意を語ってくれました。
「リーグワン4年目となり、どのチームも実力が上がり、タフな戦いが続きますが、神戸にとって、チームにとって、大切な節目のシーズンを優勝で飾れるようにしたいですね」
取材・文/山本 暁子(チームライター)
30年前、瓦礫が積まれていた灘浜グラウンド(当時)。現在もこの場所で現役選手が汗を流しています。その様子を見つめる弘津 英司チームディレクター 【コベルコ神戸スティーラーズ】
<NTTジャパンラグビー リーグワン2024-25 第5節>
神戸新聞DAY
1月19日(日) VS浦安D-Rocks
12:05キックオフ @ノエビアスタジアム神戸
この試合では、「1.17メモリアルジャージ〜阪神・淡路大震災30年〜」を着用して試合に臨みます
※リンク先は外部サイトの場合があります
現在、チームには兵庫県出身の選手が7選手所属しています(写真)。 【コベルコ神戸スティーラーズ】
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