【ホットピ!~HotTopic~】JFA 第48回全日本U-12サッカー選手権大会アンバサダー 中村俊輔さんインタビュー#1
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小学生のころから分析力を養っていた
中村 僕には兄が3人いて、それぞれテニス、野球、サッカーをしていました。僕自身がサッカーを始めたのは、1歳上の兄がやっていた影響です。兄と同じ横浜深園サッカークラブという少年団で、4歳のときに始めました。元々は通っていた幼稚園の体操クラブに入っていたのですが、そこの先生がサッカーも教えてくれて、体操クラブのメンバーで横浜市のサッカー大会に出たら優勝しちゃったんですよ。せっかくだからそのままやろうということでサッカーを始めました。体操クラブの先生なので当初はサッカーの知識は少なかったのですが、一生懸命勉強されていましたし、厳しくも愛がある方だったので仲間は誰も辞めなかったですし、僕自身も厳しく指導してもらうのは嫌いではなかったので、続けることができました。それだけサッカーが好きだったんだろうな、と思います。
――当時のプレースタイルやポジションを教えてください。
中村 幼稚園児なので、いわゆる“お団子サッカー”なのですが、フォーメーション上はセンターハーフでしたね。ボールを取られないな、左足のキックは飛ぶな、ということを自分で何となく理解していました。だからドリブルとキックが得意だったと思いますし、たくさんゴールを決められて気持ちいいな、という感覚もありました。
日本代表でもクラブチームでも、美しいキックフォームから何度も得点を演出した 【©JFA】
中村 (ディエゴ・)マラドーナです。1986年のFIFAワールドカップメキシコ大会でのプレーを見て衝撃を受けたのを覚えています。当時はスポーツショップにマラドーナやブラジル代表の「黄金のカルテット(トニーニョ・セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコという4人のMFの総称)」のビデオが売られていたので、それを買ってもらって何回も見ていました。
――当時はどのような練習をされていましたか。
中村 クラブでは基本技術を高める練習が多かったですね。幼稚園の園庭で練習していたのですが、兄の代のチームが練習している間はグラウンドが使えないので、タイヤが半分埋められている遊具をコーンに見立ててドリブルの練習をしていました。コーチが「ミスは許すけれどサボりは許さない」という方針で指導してくれていたので、メンタル的にも強くなったと思います。休みの日もひたすらボールを蹴っていました。公園や空き地に行けば誰かしらがいて、一緒にサッカーをしましたし、兄の友人もいたので、年上の子とサッカーをする機会も多かったです。今、考えればいい環境だったと思いますね。
JFA 第48回全日本U-12サッカー選手権大会に向け、自身の経験に基づく話をしてくれた 【©JFA】
中村 憧れの大会で、全国大会に出場することを目標にしていたのですが、一度も行けなかったんですよ。5年生のときも6年生のときも、神奈川県大会の2回戦で負けてしまいました。
――当時を振り返って、小学生年代で身につけておいたほうがいい能力はありますか。
中村 分析力ですね。自分を見て、次の練習、次の試合までに、何をどうすればいいのか、客観的に見ることです。これは小学生でもできると思います。僕自身は父親がビデオを撮るのが好きだったので、父親が撮影してくれた自分のプレーを見て分析していました。
――サッカーがうまくなるには、どんなことが必要だと思いますか。
中村 人それぞれ、体型も足の長さも違うので、その人に合ったサッカーの動き方を高めていく必要があると思います。走るのが速いけどトラップが大きくなってしまう子だったら、トップスピードで動きながら的確にボールを扱えるようにするとか、僕の場合はほかの子よりもいいキックが蹴れると思ったので、自宅の塀にチョークで印をつけて、同じ場所を目がけて蹴る練習をひたすらやりました。そうやって自分でトレーニングメニューを考えて、練習をコーディネートしていくことが大切だと思います。また、幼稚園の体育館で練習することもあったのですが、狭いコートで小さいボールを使ってプレーしたので素早い判断やボールコントロール能力が養われましたし、コーチが体操の先生でもあったので、マット運動や跳び箱、縄跳びなど、いろいろな身体の動かし方や使い方を習得できたのも良かったですね。
2013年には日本年間最優秀選手賞を受賞。横浜F・マリノスの天皇杯優勝にも貢献した 【©JFA】
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