ロッテ佐藤都志也 飛躍の一年。高校時代の辛い想い出を糧に成長を続けるチームの司令塔
契約更改での佐藤都志也捕手 【千葉ロッテマリーンズ提供】
2024年シーズン パ・リーグ打撃部門4位の・278をマークし、ベストナインに選ばれ、オールスターではMVPにも選ばれた。シーズン後は侍ジャパンの一員として戦った。マリーンズ佐藤都志也捕手にとって今年は飛躍の一年だった。
高校時代の悔しさをバネに成長を続けてきた。あれは3年の秋。佐藤都は学校が用意した校内の一室にいた。野球部のグラウンドで練習をして、ドラフト会議が始まったタイミングでその部屋に向かった。
「県内唯一の指名候補だったので、結構、地元のメディアがいた」と本人は振り返る。
部屋に着くと大勢の地元マスコミが待ち構えていた。テレビカメラも準備をされていた。指名を受けた場合は地元テレビ局では異例の生中継も用意されていると聞かされた。両親、そしてチームメートも会場に駆けつける。全員で喜びを分かち合う用意が整っていた。甲子園の常連校である聖光学院高校の4番としてドラフト指名候補として福島県内の注目を一身に浴びていた。
「正直、あの時の自分も下位とは思うけど指名されるかなあと思っていた甘い部分はあった」と佐藤都。
指名が始まった。中継を見守りながら、待った。時間だけが流れていく。各球団が指名をするたびにカメラマンたちがその瞬間を見逃すまいと壇上にいる高校生の表情にピントを合わせる。そして違う名前が呼ばれると、いったん臨戦態勢が解かれる。その流れが延々と繰り返された。
「いけるだろうと思って、いけなかった。行けなかった時は空気を感じました。みんながどこかの球団の指名が始まるたびにカメラを構えて、『ああ、ダメだったか』となる。その連続。『あーあー』と言うような表情もボクからは見える。最後の方はそれがすごく辛くなった」
「選択終了」。各球団から無情のアナウンスが流れ始めた。育成でのプロ入りは選択肢の中にはなかったので、全球団の指名選択終了で夢は途切れることを意味していた。
「その空気は今でも思い出せるくらいきつかった。これだけ集まってくれた人に名前が呼ばれなくて恥ずかしいというか申し訳ない気持ち。色々な感情があった」。
ドラフト会議が終わると静かに、その場を去った。見守っていたチームメートも複雑そうな表情を見せた。なんと言葉をかけていいかわからない仲間もいれば、あえて冗談を言ってボディータッチをしてくる友もいた。みんなそれぞれの方法で気を使ってくれていた。それらすべて思春期の心に響いた。まだ17歳の高校生にはあまりにも厳しい時間と場所だった。
「その時は、その場では涙は出ませんでした。でもそのあとは泣いた」。佐藤都はあえてみんなの前では辛い表情は見せなかった。寮に戻って一人になって涙がこぼれた。
家族からは「大学に行って4年間、頑張ってこい」とエールを送られた。斎藤智也野球部監督からも「もう一回、挑戦しろ。大学で結果を出して指名してくれなかった人たちを見返して見ろ」と声をかけられた。だからクヨクヨすることはなかった。次の日から木製バットを握って、ガムシャラに振った。
「選ばれなかった直後からバットを振った。半分、悔しさを紛らわすための練習。とにかく振った。辛さも悔しさも恥ずかしさもかき消すには、それしかなかった」
そして大学は野球と勉強の両方が出来る環境の整った東洋大学を選んだ。2年生の春から一塁手としてレギュラーに定着すると春季リーグ戦では首位打者を獲得しベストナインを受賞。秋も最多安打でベストナインを受賞。確かな手ごたえを掴んだ。なによりも自身を成長させるうえで大きかったのは偉大な先輩たちの姿だった。3年時に本格的に捕手として取り組み、その年のドラフトの注目の的だった上茶谷大河(ベイスターズ)、甲斐野央(ライオンズ)、梅津晃大(ドラゴンズ)ら大学トップレベルの3投手をリードした。一つ下にはタイガースの村上頌樹もいた。プロから注目を集める投手たちのボールを受けた。「これがプロに行く人の球か」と唸った。そのミットでボールをとったことでプロのレベルを正確に測ることが出来た。そして3年時にリーグ優勝に貢献すると大学生最後のシーズンはチームの主将に任命され、名実ともにチームの要として成長していた。
「4年生の方々がプロに行くのを見て、またプロを近い場所にあるように感じるようになった。その球をオレは受けていたというのは自信になった。自分も3年生から大学ジャパンに入って、自信が出てきて、またプロへの道を思い描けるようになった」
そしてまたあの運命の日はやってきた。東洋大学の白山キャンパスにその場所は準備されていた。ドラフト上位指名確実の報道が溢れていた。ただ佐藤都には4年前のトラウマがあった。だから、いつも冷静を保つことにした。メディアから「どこの球団に行きたい?」と聞かれても「ボクは指名いただけるだけで嬉しいです」と口にした。「行きたくても行けなかった。だから、どの球団に行きたいなんて聞かれても、どこに行きたいなんて絶対に言えなかった。本当に必要してくれる球団なら、どこでもいいと思っていた」と振り返る。偽るざる本音だった。
「高校で辞める選択肢もあった。でも、どうせなら見返したいと思った。調査をしてもらったけど、指名は見送られたけど、その時にそういう判断をした方々に、プロに入って、活躍して見返したい気持ちだった。それが高校時代の自分の理想の未来像。その気持ちで4年間やってきた。原動力だった。ただ、もし高校から下位で指名されてプロに入っていたらどうなっていたかなと今は思う。逆にもうクビになっていたかもと思う時はある。そう思うと本当に大学でいい4年間を過ごすことが出来た」と佐藤都は言う。
人生とは不思議なものだ。もし、あの日、指名を受け、なんの挫折を味わうことなくプロの門を叩いていたら、いったいどうなっていたのだろうか。それは誰も分からない。ただ本人が「井の中の蛙だったと思う。もしかしたら、もういないかも」としみじみ言うように順風満帆だった若者にとって厳しい現実が待っていたのは間違いない。遠回りをしたが、結果的にそれが良かったと佐藤都は今、ハッキリと胸を張って言い切れる。色々な事を学んだ。素晴らしい先輩たち、同級生、後輩たちと出会い、成長した。悔しさから這い上がった。そしてここにたどり着いた。
24年7月24日、神宮で行われたオールスターゲーム。5安打を放った佐藤都がMVPを受賞した。球団では村田兆治投手以来、実に35年ぶりの快挙だった。大学時代の4年間、悔しさをバネに成長した球場で12球団ファンの喝采を一身に受けた。
「辛い事もあった。でも色々な支え、色々な力を借りながらここまで来た。今年の事は自信にはなった。ただ、これからはこれがベース。来年が大事になる」と佐藤都は契約更改で語気を強めた。人生の浮き沈みを若い時に味わった男には油断と言う言葉はない。2025年もこの男が引っ張る。マリーンズの司令塔としてチームを悲願のリーグ優勝へと導く。
文 千葉ロッテマリーンズ広報室 梶原紀章
高校時代の悔しさをバネに成長を続けてきた。あれは3年の秋。佐藤都は学校が用意した校内の一室にいた。野球部のグラウンドで練習をして、ドラフト会議が始まったタイミングでその部屋に向かった。
「県内唯一の指名候補だったので、結構、地元のメディアがいた」と本人は振り返る。
部屋に着くと大勢の地元マスコミが待ち構えていた。テレビカメラも準備をされていた。指名を受けた場合は地元テレビ局では異例の生中継も用意されていると聞かされた。両親、そしてチームメートも会場に駆けつける。全員で喜びを分かち合う用意が整っていた。甲子園の常連校である聖光学院高校の4番としてドラフト指名候補として福島県内の注目を一身に浴びていた。
「正直、あの時の自分も下位とは思うけど指名されるかなあと思っていた甘い部分はあった」と佐藤都。
指名が始まった。中継を見守りながら、待った。時間だけが流れていく。各球団が指名をするたびにカメラマンたちがその瞬間を見逃すまいと壇上にいる高校生の表情にピントを合わせる。そして違う名前が呼ばれると、いったん臨戦態勢が解かれる。その流れが延々と繰り返された。
「いけるだろうと思って、いけなかった。行けなかった時は空気を感じました。みんながどこかの球団の指名が始まるたびにカメラを構えて、『ああ、ダメだったか』となる。その連続。『あーあー』と言うような表情もボクからは見える。最後の方はそれがすごく辛くなった」
「選択終了」。各球団から無情のアナウンスが流れ始めた。育成でのプロ入りは選択肢の中にはなかったので、全球団の指名選択終了で夢は途切れることを意味していた。
「その空気は今でも思い出せるくらいきつかった。これだけ集まってくれた人に名前が呼ばれなくて恥ずかしいというか申し訳ない気持ち。色々な感情があった」。
ドラフト会議が終わると静かに、その場を去った。見守っていたチームメートも複雑そうな表情を見せた。なんと言葉をかけていいかわからない仲間もいれば、あえて冗談を言ってボディータッチをしてくる友もいた。みんなそれぞれの方法で気を使ってくれていた。それらすべて思春期の心に響いた。まだ17歳の高校生にはあまりにも厳しい時間と場所だった。
「その時は、その場では涙は出ませんでした。でもそのあとは泣いた」。佐藤都はあえてみんなの前では辛い表情は見せなかった。寮に戻って一人になって涙がこぼれた。
家族からは「大学に行って4年間、頑張ってこい」とエールを送られた。斎藤智也野球部監督からも「もう一回、挑戦しろ。大学で結果を出して指名してくれなかった人たちを見返して見ろ」と声をかけられた。だからクヨクヨすることはなかった。次の日から木製バットを握って、ガムシャラに振った。
「選ばれなかった直後からバットを振った。半分、悔しさを紛らわすための練習。とにかく振った。辛さも悔しさも恥ずかしさもかき消すには、それしかなかった」
そして大学は野球と勉強の両方が出来る環境の整った東洋大学を選んだ。2年生の春から一塁手としてレギュラーに定着すると春季リーグ戦では首位打者を獲得しベストナインを受賞。秋も最多安打でベストナインを受賞。確かな手ごたえを掴んだ。なによりも自身を成長させるうえで大きかったのは偉大な先輩たちの姿だった。3年時に本格的に捕手として取り組み、その年のドラフトの注目の的だった上茶谷大河(ベイスターズ)、甲斐野央(ライオンズ)、梅津晃大(ドラゴンズ)ら大学トップレベルの3投手をリードした。一つ下にはタイガースの村上頌樹もいた。プロから注目を集める投手たちのボールを受けた。「これがプロに行く人の球か」と唸った。そのミットでボールをとったことでプロのレベルを正確に測ることが出来た。そして3年時にリーグ優勝に貢献すると大学生最後のシーズンはチームの主将に任命され、名実ともにチームの要として成長していた。
「4年生の方々がプロに行くのを見て、またプロを近い場所にあるように感じるようになった。その球をオレは受けていたというのは自信になった。自分も3年生から大学ジャパンに入って、自信が出てきて、またプロへの道を思い描けるようになった」
そしてまたあの運命の日はやってきた。東洋大学の白山キャンパスにその場所は準備されていた。ドラフト上位指名確実の報道が溢れていた。ただ佐藤都には4年前のトラウマがあった。だから、いつも冷静を保つことにした。メディアから「どこの球団に行きたい?」と聞かれても「ボクは指名いただけるだけで嬉しいです」と口にした。「行きたくても行けなかった。だから、どの球団に行きたいなんて聞かれても、どこに行きたいなんて絶対に言えなかった。本当に必要してくれる球団なら、どこでもいいと思っていた」と振り返る。偽るざる本音だった。
「高校で辞める選択肢もあった。でも、どうせなら見返したいと思った。調査をしてもらったけど、指名は見送られたけど、その時にそういう判断をした方々に、プロに入って、活躍して見返したい気持ちだった。それが高校時代の自分の理想の未来像。その気持ちで4年間やってきた。原動力だった。ただ、もし高校から下位で指名されてプロに入っていたらどうなっていたかなと今は思う。逆にもうクビになっていたかもと思う時はある。そう思うと本当に大学でいい4年間を過ごすことが出来た」と佐藤都は言う。
人生とは不思議なものだ。もし、あの日、指名を受け、なんの挫折を味わうことなくプロの門を叩いていたら、いったいどうなっていたのだろうか。それは誰も分からない。ただ本人が「井の中の蛙だったと思う。もしかしたら、もういないかも」としみじみ言うように順風満帆だった若者にとって厳しい現実が待っていたのは間違いない。遠回りをしたが、結果的にそれが良かったと佐藤都は今、ハッキリと胸を張って言い切れる。色々な事を学んだ。素晴らしい先輩たち、同級生、後輩たちと出会い、成長した。悔しさから這い上がった。そしてここにたどり着いた。
24年7月24日、神宮で行われたオールスターゲーム。5安打を放った佐藤都がMVPを受賞した。球団では村田兆治投手以来、実に35年ぶりの快挙だった。大学時代の4年間、悔しさをバネに成長した球場で12球団ファンの喝采を一身に受けた。
「辛い事もあった。でも色々な支え、色々な力を借りながらここまで来た。今年の事は自信にはなった。ただ、これからはこれがベース。来年が大事になる」と佐藤都は契約更改で語気を強めた。人生の浮き沈みを若い時に味わった男には油断と言う言葉はない。2025年もこの男が引っ張る。マリーンズの司令塔としてチームを悲願のリーグ優勝へと導く。
文 千葉ロッテマリーンズ広報室 梶原紀章
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ