【浦和レッズ】うれしさよりも悔しさのほうが多い…そう振り返る興梠慎三が12月8日のラストマッチで見せたい姿とは?

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 浦和レッズで過ごした時間を振り返り、興梠慎三は言う。

「今思い返すと、やっぱりうれしい出来事や思い出より、悔しい思いのほうが多かったかな。そのすべてが自分の財産にはなりましたけど、やっぱり結果としては物足りなかった。自分としては、やれることはやってきたので、そこに悔いはないですけど、11年間在籍して、タイトルが5つ。少ないし、貢献できなかったという思いと、チームを勝たせられなかったという思いがある。

 鹿島アントラーズでは、すごい人たちと一緒にプレーしてきましたけど、やっぱりその人たちには追いつけなかったなって。鹿島で2トップを組んでいたマルキーニョスは、やっぱり大事な試合で点を決めていたし、そういう人がストライカーであり、エースだと思っていたので、自分は浦和レッズでそうした存在になれなかったという思いがある」

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 浦和レッズに在籍した11年間で、J1リーグで114得点を記録してなお、興梠はそう言葉を残した。

 加入した2013年、第6節の湘南ベルマーレ戦で初ゴールを決めた興梠は、リーグで13得点を挙げた。チーム最多となるその数字は、自らが「やってみたかった」サッカーで、ストライカーとして活きることを証明した。

 鵬翔高校時代もサイドアタッカーとして名を馳せたように、鹿島にもMFとして加入した。ストライカーになったのは、2007年にオズワルド オリヴェイラ監督によってコンバートされてからだ。

「どちらかというと、もともとはドリブラーだったんですよね。だから、鹿島時代は、点を決めるにしても、ドリブルで相手を抜いて決めたり、DFの裏へ抜け出して決めたりと、スピードを活かしたプレースタイルだった」

 彼はここ浦和レッズで、ストライカーとして成長していった。

「ミシャのサッカーに取り組むようになってから、ポストプレーが重要視されて。ミシャからは、『なるべく動きすぎるな』と。『ペナルティエリアの横幅のラインから外に出るな』ってよく言われていました」

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 サイドに流れれば流れるほど、人は少なくなるため、フリーでボールがもらえる状況が多くなる。しかし、中央にいることを求められるため、前からも後ろからも来る相手のプレッシャーへの対応が求められた。

 自然と、練習から次のプレーを予測するようになり、自分がボールを受けたあとに、どこへつなぐのか、どこにターンするのか、「先」を考えるようになった。

「練習から意識していたら、余裕を持ってプレーできるようになったというか。自分の周りに半径何メートルの円を描いたとしたら、そのなかでボールを受けたときには、自分は何でもできるといった感覚になった。

 もちろん、それだけじゃないですけど、ミシャからいろいろと教わり、ボールを奪われないゾーンが広くなって、点が取れるようになったと思います」

 代名詞まで昇華させたポストプレー、ターンから素早く振り抜くゴール、DFの背後からするっと飛び出してワンタッチで決めるゴール。

 その多くは浦和レッズで培ったものだ。

「思い返すと、本当にそうですね。今、俺のことをドリブラーだと思う人っていないですからね。ストライカーとしての技術は、浦和レッズで身につけたものが多かった。うん。間違いなくそうだと思います」

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 見返してやると思って、浦和レッズにやってきた選手は、認められたことによって、その期待に応えようと、ストライカーから、エースストライカーになっていった。


「もともとがFWじゃなかったからか、プレッシャーもなかったし、そもそも自分がエースとは思ってやってきていなかった。だから、そんなに(エースを)背負っていたかと言われると、そうでもないかもしれない。でも、みんなが『エース』『エース』って言ってくれたので、それなりのことは示さないといけないと思ってきた。

 FWってやっぱり頑張っただけではダメなんですよね。目に見える数字や結果で評価されるポジション。自分がどれだけチームに貢献していたとしても、年に3点、4点じゃ、やっぱり評価されない。

 そういう意味では、結果を残さなければいけなかったので、辛いところはありました。ただ、それがプレッシャーや苦にはなっていなかったかな。俺が俺がと、点にこだわらなかったところが、逆によかったんじゃないかと思います。自分が点を取れたらうれしいですけど、それ以上にチームが勝つことが大事だったから」

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 ユニフォームを脱ぐ今、興梠慎三はどんなストライカーだったのかを訊ねてみたくなった。

「難しいね。難しい。どんなストライカーだったんですかね。でも、みんなが思っているストライカー像とは掛け離れていたと思います。周ちゃん(西川周作)が頼りになるストライカーだったと言ってくれたけど、自分としては、そんなふうに思えなかったし、自分でいっぱいいっぱいのときもあった。チームを勝たせられなかったことも多かっただけに、その領域には到達できなかったなって」


 確かにストライカー特有のエゴはなかったかもしれない。

 だが、チームメートのために、チームの勝利のためにゴールを目指す浦和レッズのエースストライカーという像を、はっきりと残した。

 それは11年間で積み重ねてきた114ゴールという数字が物語っている。

 ストライカーについて聞いたあと、自分にとってサッカーとは何かという問いかけをしたくなった。
 再び「難しい」と考えた末に言った。

「究極の遊び。仕事だと思ったことはないかもしれない」

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 興梠が言葉を続ける。

「まず自分が楽しんでやらないと、お金を払って見に来てくださっているファン・サポーターの人たちも楽しめないと思う。僕ら選手たちは、結果が求められているので、楽しいだけではもちろんダメだし、試合に勝つことが条件になるけど、だからこそ究極のゲームというか遊びになるのかもしれない」

 子どものときから、遊びでも、ゲームでも、楽しみながらも勝つことを目指していた。そんな時間がずっと続いていたのだろう。

 それは同時に、未来を担う後輩たちへ向けたメッセージでもあった。

「今季は特に優勝争いどころか、残留を争うようなシーズンになってしまって、本当に応援してくれるファン・サポーターに対して不甲斐ない試合が多かった。そこは一人ひとりが反省しなければならないことだと思う。それは選手だけでなく、チーム、クラブとしても。


 でも、まずみんなに楽しんでいるかどうかを問いかけたい。ボールを受けるのが怖くて隠れてしまうような場面とかを見ると、それでは勝てる試合も勝てなくなってしまうし、サッカーを楽しんでいないように見えるときもあった。だから、もう一度、原点に戻って、まずは自分が楽しまないと。そうじゃないと、見ている人も楽しめないということを、一人ひとりに感じてほしいですね」

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 究極の遊び。12月8日、埼玉スタジアムで思いっ切りサッカーを楽しむ背番号30の姿を、この目に焼きつける。

(取材・文/原田大輔)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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