【浦和レッズ】禁断の移籍を果たした興梠慎三が浦和レッズの一員として認めてもらえた日「めちゃくちゃうれしかった」

浦和レッドダイヤモンズ
チーム・協会

【©URAWA REDS】

 今でもはっきりと覚えている。

 あのコールも、あの雰囲気も。

 思い出すたびに、興梠慎三は奮い立った。

「最初は本当に、全然、応援されなかったからね。例えば、俺が試合中に相手選手と接触して倒れたとしたら、そのときだけ『早く立てよ』って意味で、名前を呼ばれる。

 他の選手にはコールがあるのに、俺だけがなかった。他の選手の名前を順番にコールしていくときも、俺だけなくて、そこで終わるみたいな……」

 鹿島アントラーズから浦和レッズに加入した2013年。

 興梠はリーグ開幕戦から1トップを務めた。自らのゴールはなかったが、第1節、第2節と連勝して迎えた第3節、アウェイの大分トリニータ戦だった。

2013シーズンの大分戦 【©URAWA REDS】

「ゴールを決める前に、自分のチャントを歌ってくれたんですよ。めちゃくちゃ鮮明に覚えているんですけど、そのとき、めちゃくちゃうれしかったことも覚えている。

 自分自身はそこまでゴールにこだわってなかったけど、一般的にサッカーではゴールを決めた選手がすごいって思われがちだったりする。でも、浦和レッズのファン・サポーターはわかってくれていた。

 自分はゴールを奪うまでの過程や、一つひとつのプレーがうまいと思われることを大切にしていたし、目指していた。それをこの人たちはわかってくれるし、認めてくれるんだなと思った。

 だからいつも、選手を厳しい目で見ているんだ、この人たちはって。自分がゴールを決めるよりも前に応援された瞬間が、(第6節で)浦和レッズに加入して初めてゴールを決めたときよりも、うれしかったですね」

 プレーで見返してやる、認めさせてやる。

 その思いは変わった。

 この人たちのために闘おう、ゴールを決めよう。

 そう決意した瞬間だった。

2013シーズンの大分戦 【©URAWA REDS】

「やってみたいな」

 まだ鹿島に在籍していた2012年。

 ミハイロ ペトロヴィッチ監督が率いるようになった浦和レッズを迎え撃った試合で、そんな思いを抱いていた。


「開始2分で自分が点を取ったんですけど、その直後に失点して、結局、逆転負けして。そのときの崩され方が、もう気持ちがいいくらいに崩されたというか。まさに、やられたって感じだった。すごいなって思ったし、自分自身は先制点こそ決めたけれども、結局、何もできなかった」

 ペトロヴィッチ監督がサンフレッチェ広島を率いていたときから、そのサッカーに感化されていた。GKからボールをつなぎ、DFがビルドアップに参加する。相手にハイプレスを掛けられても、前に蹴らず、徹底的に後ろから崩していくそのサッカーに、衝撃と美しさすら感じていた。

 率いるチームが広島から浦和レッズに代わっても、ペトロヴィッチ監督は同じスタイルを継続していた。

「何より、プレーしている選手たちが楽しそうだったんだよね。こっちは先制しているのに、どこか窮屈感があった。浦和レッズの選手たちはずっとニコニコしながらやっているように見えて、すごく楽しそうだった」

鹿島に在籍していた2012シーズン、阿部勇樹と競り合う興梠 【©URAWA REDS】

 1-3で敗れた試合後には、ぼんやりと思っていた。

「あのなかに自分がいたら、どんなプレーができるのかな」

 幼いころからボールを蹴り続けてきて、初めて抱いた感覚だった。

 その2012年を終えて、鹿島との契約が切れた興梠は移籍を模索していた。ただし、代理人と契約していなかったため、たとえ獲得に名乗りを挙げたクラブがあったとしても、自分の耳に届く機会はなかった。


 電話がかかってきたのは、半ば諦めかけていたときだった。

「ミシャ(ペトロヴィッチ監督)が、欲しいと言っている。浦和レッズに来ないか」

 自分でも気持ちが昂ぶっているのがわかった。

「わくわくしましたね」

 ただし、心は決まっていたが、踏み出すには勇気が必要だった。

「鹿島時代は、自分も浦和レッズが一番のライバルだと思っていた」

 逆もまた然り。浦和レッズのファン・サポーターにとっても、鹿島の選手を敵視する傾向は強かった。

2013シーズン新加入選手会見 【©URAWA REDS】

 自らも「禁断の移籍」と表現する。

「生半可な気持ちでは、浦和レッズに来られなかった。最初は、浦和レッズのファン・サポーターの誰も彼もが、俺のことを認めてくれなかった。加入に対して、罵声を浴びせられることもたくさんあったし、クラブにもたくさん手紙が届いていた。『来るな』とか『お前なんかいらない』とか。

 でも、自分自身はそういう状況を覆すのが楽しみでもあったし、その点は負けず嫌いなところがあるので、どうにかして自分のプレーで、そういう人たちを見返してやろうと思って、浦和レッズに来ました」

 興梠は「だから」と、当時を思い出す。

「他の選手たちとは、ちょっと覚悟が違ったような気がする。今は、移籍加入する選手に対してもウェルカムな雰囲気があるけど、自分はウェルカムな状況からチームに入っていないから。だから、中途半端なプレーは許されないし、自分のプレーで認めさせないといけないという思いで、ずっとやっていた」

2013シーズンの始動日 【©URAWA REDS】

 きっかけは、「やってみたいな」と思ったサッカーだったかもしれない。

 だが、あの日、アウェイのスタンドから聞こえてきたチャントを聞いた興梠は、このクラブのため、そしてこのチームのため、そしてファン・サポーターのために闘おう、ゴールを目指そうと思って走ってきた。

「加入する前は、嫌いでしたね」と笑う。

「確かにきっかけはミシャのサッカーがやりたかったからですけど、加入してからは本当に大好きなクラブになりました」

 浦和レッズのファン・サポーターも敵視していた興梠を認め、愛するように、認められた興梠もまた、浦和レッズを、そしてファン・サポーターを愛している。

「それから11年間ですからね。もう不思議、本当に不思議ですよね」

 そして言う。

「認めてもらってからは、もう本当に心強い仲間。どんな状況であっても、浦和レッズのファン・サポーターの声援は心強いし、後押しになる。だって、浦和レッズの試合は、選手たちのプレーを見に行くというよりも、ファン・サポーターの声援を見に来ているんじゃないかって思うくらい。それくらいの迫力がある。

 鹿島にいたときは、その人たちを黙らせてやろうと思っていたけど、いざ浦和レッズに来て、浦和レッズの選手としてゴールを決めたら、あれだけのファン・サポーターが声援で後押ししてくれるし、欠かせない存在ですよね。コロナ禍で無観客での試合も経験しましたけど、あのとき、改めてファン・サポーターあっての浦和レッズだなって感じたから」

2015シーズン1stステージ優勝後にペトロヴィッチ監督、森脇良太、那須大亮と 【©URAWA REDS】

 埼玉スタジアムでゴールを決めたとき、歓喜の中心にいる興梠にはどう聞こえているのか。

「実は、輪の中心にいると、あんまり聞こえないというか、わからなかったりする」

 スタンドから試合を見る機会が増えた今季、外から見て実感した。

「外から見ていたら、ゴールが決まった瞬間に地響きみたいなあの歓声を聞いて、改めてこんなすごかったんだって感じたことがあったんですよね。俺、こんな中でやっていたのかって」

 ユニフォームを着て埼玉スタジアムのピッチに立つチャンスはあと1試合になった。そこで興梠は、どんな歓声を聞くのだろうか。

「みんなが思っている自分のイメージする姿を見せられたら、一番いいかな。ウガ(宇賀神友弥)や周ちゃん(西川周作)は、ヒーローインタビューを受けてほしいって言っていたけど、そのあとにも話すので、ヒーローインタビューには出なくてもね。

 でも、チームが勝つことが一番だし、、ひとつでも上の順位でシーズンを終えることがチームにとっては大事。それを考えたプレーができれば、自ずと結果がついてくると思っています」

 みんなが思っている自分のイメージする姿——それはゴールを決めて歓喜の中心にいる背番号30の背中だ。

【©URAWA REDS】


(取材・文/原田大輔)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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