【浦和レッズ】特別な場所があることの幸せを噛みしめながら原口元気は闘う「世界で一番情熱を燃やせる場所がここ」

浦和レッドダイヤモンズ
チーム・協会

【©URAWA REDS】

 2024年9月14日、明治安田J1リーグ 第30節 ガンバ大阪戦。1-0とリードしたまま、チームは試合終了の笛を聞いた。

 その瞬間、原口元気は感情を爆発させた。

「マチェイ スコルジャ監督も俺も来たばかりで、そこで良いスタートを切ることができるかどうかが今のチームにとって大切だと思っていた」

 勝利の喜び。チーム全体への影響を考慮した末の安堵。その両者が同居していた。

 加えて、「帰って来た」という実感があった。

「いろんなところでいろんな人が『お帰りなさい』と言ってくれた。だけど自分の仕事を考えたら、ピッチでサポーターと一緒に闘って、そして勝って、そこで初めて『帰って来たな』と思えた。その実感が、ようやく得られた瞬間でした」

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 原口が巣立って行ったのは2014年6月1日。埼玉スタジアムでの名古屋グランパス戦を最後に、ドイツへと渡った。

 あれから10年――。

 その年月の間、『浦和レッズ』という存在は原口にとってどういうものだったのか。

 改めて尋ねてみた。

「浦和にいたときは、浦和のためにという気持ちがすごく強くて、『こう』なってた」

 原口は「こう」と口にして、両眼の幅に合わせて左右の手を垂直に立ててみせる。「視野が狭くなっている」ことを意味するポーズだった。

「『浦和レッズ』という場所に、すごく執着していたんです。本当に心の底から、タイトルを獲って出ていきたかった。でも、それが簡単なことではなくて、もがいていた」

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 タイトルという置き土産を残せぬままの渡独。

 心残りを抱いたままの旅立ちだったが、その先に待っていた『世界の広さ』に、原口は魅了されたのだと語る。

「世界は広くて、とんでもない選手がたくさんいて、そこでチャレンジしていきたいって気持ちになりました」

「だから――」と原口は続ける。

「いったん意識をその『世界』に集中していた時期は正直ありました」


 そう言って、少しだけ申し訳なさそうな顔をみせた。つまり、浦和のことは追憶の中の存在として一旦は突き放した。そういうことなのだろう。

 だがそんな時期も含め、浦和レッズのフットボール本部は彼とのコンタクトを欠かすことはなかった。

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「20代の頃は『いつでも帰って来い』と言われるときもあれば、『まだまだドイツで頑張ってくれよ』と言われることもあった。両方のニュアンスでしたね。30代になって、『帰って来てくれ』と本格的に誘われるようになった。『いつでも待ってる』ということは常に言ってくれていました」

 前スポーツダイレクター(SD)土田尚史、現SD堀之内聖はこの10年の間に何度もドイツへと飛んでいる。その結果、二人の思いは原口の心に届き、特に堀之内SDとの間には、強い信頼関係が結ばれていった。「年齢の近さもあったし、ホリさんとは一緒にプレーもしていたから」だ。

「ホリさんがドイツまで来てくれるたびに、俺がその時々のレッズのサッカーを見て感じたことを、ふたりでよく話しました。そういうディスカッションはかなりしていましたね」

 両者の思いは一致していた。

「いつかは再び、レッズで――」。

 下地は完成していた。問題はタイミングだけ。

 それが、今回だったのだ。

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「正直なところ、ヨーロッパに残ろうと思えば残れた。でも、どこでプレーしたいか、どこで点を取りたいかと考えたときに、浦和のユニフォームを着ている自分と、埼スタの映像が思い浮かんできて――」

 原口はそう言って続ける。

「そのときに、『やっぱり浦和だな』と思いました。ドイツで過ごす間に好きなクラブもできたし、長くいてもいいなと思えるクラブもあった。でも、心情的な部分で『すべてを懸けてこのクラブのために頑張りたい』と思えるようなところには、ヨーロッパでは出会えなかったかな」

 ドイツでの10年を経て『大人』になった彼との話は、尽きなかった。

「でも、帰って来たということだけで『美談』にされたくはない。これで終わりではないから」

 そんなふうに、今の思いを主張する場面もあった。

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 そういう『我』を通そうとするところは変わらず残っているのだなと感じさせられ、それがまた頼もしくもあった。

 だから、以下に書くことを原口が読めば、「美談にしようとしている」と批難するかもしれない。

 それでも、ファン・サポーターには、次のような彼の言葉は伝えるべきだと感じる。

「ドイツに行った当初は、バーッと世界が広がって、浦和レッズがすごく狭い場所に感じた時期もありました。でも、10年の間にいろいろなものを感じた末に、もう一度このエンブレムを付けてプレーするってことが、こんなに感情を揺さぶられることだとは思ってなかった。それってすごく幸運なことでしょ。だから、そんな特別な場所があって幸せだなと思う」

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 原口がそう語るのを聞いていて、ある諺(ことわざ)が思い浮かんだ。

『井の中の蛙 大海を知らず』

 だが、「大海」を知った後になってなお、「井の中」をこそ恋焦がれる蛙もいるのかもしれない――。

 頭に思い描いたそんな可能性について、原口に問うてみた。

 彼は肯定した。「そういうことだと思う」、と。

「今でも世界を、その諺で言えば『大海』を知っているつもり。ここはバイエルン ミュンヘンでもレアル マドリードでもない――」

 浦和レッズは世界から見れば、ありふれた「井戸」のひとつなのだ。

 それでも、原口元気はこう断言する。

「だけど俺にとっては、世界で一番情熱を燃やせる場所。それがここ」だと。

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(取材・文/小齋秀樹)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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