【SPECIAL】JFAリスペクトフェアプレーデイズ~大住良之(サッカージャーナリスト)コラム
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第33回オリンピック競技大会(2024/パリ)では、ブレイキン、スケートボード、サーフィン、スポーツクライミングの4つの競技が新たに加わり、世界中のスポーツファンに大きな刺激をもたらしました。新たなスポーツが台頭する中、世界で最も人気があるスポーツとされるサッカーはどうあるべきなのでしょうか。今回はサッカージャーナリストの大住良之さんのコラムをお届けします。
9月は「JFAリスペクト・フェアプレーデイズ」です。リスペクトについて、サッカーファミリーのみんなで一緒に考えてみましょう。
9月は「JFAリスペクト・フェアプレーデイズ」です。リスペクトについて、サッカーファミリーのみんなで一緒に考えてみましょう。
他の競技から学ぶ~第33回オリンピック競技大会(2024/パリ)より
7月から8月にかけて行われたパリオリンピックでの男女サッカー日本代表の奮闘は、ともに称賛に値するものでした。どちらも準々決勝で敗退してメダル獲得はなりませんでしたが、日本が敗れた相手(男子のスペインと女子のアメリカ)が結果的に金メダルを獲得したことで、ファンの心はだいぶ慰められたのではないでしょうか。
さて、オリンピックは、日ごろサッカーのことばかり考えている私のような者に、他の競技と触れ合う機会を与えてくれる貴重な場でもあります。さまざまな競技で日本選手が活躍したパリ大会でも、テレビを通していろいろな競技を目にし、また、アスリートたちの話を聞くことができました。
その中で、ある日、「金メダルもの」のコメントを耳にしました。スケートボードの女子パーク。四十住(よそずみ)さくら選手(22歳)が、8月6日にコンコルド広場の特設会場で行われた予選のランを終えたときに、テレビのインタビューに応えたときの言葉です。
「ひとの失敗は祈りたくない」
少し説明が必要です。このスケートボード・パークの予選には22人が出場し、4組に分かれて各選手が3回ずつ滑ります。そして3回の「ラン」のうちの最高ポイントで順位が争われ、上位8人が決勝に進みます。四十住選手の滑走順は「第1ヒート」6人の6番目。3年前の東京オリンピックの金メダリストとして連覇を懸けて臨んだ大会でしたが、2回目、3回目のランで失敗。1回目の79.70が最高ポイントとなりました。
6人が終わった時点で4位。あと16人のランが残っている中、8位以内に入るのは非常に難しいように思われました。当然、3回目のランを終えたばかりの四十住選手は、落胆の色を隠せませんでした。
「めっちゃ2連覇しようと思って来たので、ワン、ツー、スリーの中にいたかった(第1ヒートで3位までに入りたかった)んですけど…」
それでも、自分自身に言い聞かせるように、こう語ったのです。
「最後まであきらめずに。でも、ひとの失敗は祈りたくないので」
なんと気高く、美しい言葉でしょうか。
採点競技に限らず、勝敗や順位が付くあらゆる競技で、アスリートたちは自分自身が失敗しないよう最大限の努力を払います。そして同時に、競争相手が失敗することにより勝利を得ます。自分自身のパフォーマンスが終わったとき、相手の失敗を願うのは、ごく当然な心理だと思います。
しかし四十住選手は、そうした心理を「是」とはしなかったのです。スケートボードという競技の「文化」とは違うからではないでしょうか。
近年のオリンピックでは、若い世代に人気のある競技が次々と種目入りし、話題になっています。伝統的な「オリンピック競技」とは大きく違い、町の公園などで始まった遊びの延長のような競技がオリンピックにふさわしいのか、眉をひそめる人も少なくはありません。正直に言いますが、私もそのひとりでした。
しかし実際にオリンピックなどで見ると、こうした「新しいスポーツ」には、旧来のスポーツにはない、あるいはかつてはあったのに、いつの間にか死に絶えてしまった美しい「文化」があります。アスリートたちが心から互いをリスペクトする姿です。
さて、オリンピックは、日ごろサッカーのことばかり考えている私のような者に、他の競技と触れ合う機会を与えてくれる貴重な場でもあります。さまざまな競技で日本選手が活躍したパリ大会でも、テレビを通していろいろな競技を目にし、また、アスリートたちの話を聞くことができました。
その中で、ある日、「金メダルもの」のコメントを耳にしました。スケートボードの女子パーク。四十住(よそずみ)さくら選手(22歳)が、8月6日にコンコルド広場の特設会場で行われた予選のランを終えたときに、テレビのインタビューに応えたときの言葉です。
「ひとの失敗は祈りたくない」
少し説明が必要です。このスケートボード・パークの予選には22人が出場し、4組に分かれて各選手が3回ずつ滑ります。そして3回の「ラン」のうちの最高ポイントで順位が争われ、上位8人が決勝に進みます。四十住選手の滑走順は「第1ヒート」6人の6番目。3年前の東京オリンピックの金メダリストとして連覇を懸けて臨んだ大会でしたが、2回目、3回目のランで失敗。1回目の79.70が最高ポイントとなりました。
6人が終わった時点で4位。あと16人のランが残っている中、8位以内に入るのは非常に難しいように思われました。当然、3回目のランを終えたばかりの四十住選手は、落胆の色を隠せませんでした。
「めっちゃ2連覇しようと思って来たので、ワン、ツー、スリーの中にいたかった(第1ヒートで3位までに入りたかった)んですけど…」
それでも、自分自身に言い聞かせるように、こう語ったのです。
「最後まであきらめずに。でも、ひとの失敗は祈りたくないので」
なんと気高く、美しい言葉でしょうか。
採点競技に限らず、勝敗や順位が付くあらゆる競技で、アスリートたちは自分自身が失敗しないよう最大限の努力を払います。そして同時に、競争相手が失敗することにより勝利を得ます。自分自身のパフォーマンスが終わったとき、相手の失敗を願うのは、ごく当然な心理だと思います。
しかし四十住選手は、そうした心理を「是」とはしなかったのです。スケートボードという競技の「文化」とは違うからではないでしょうか。
近年のオリンピックでは、若い世代に人気のある競技が次々と種目入りし、話題になっています。伝統的な「オリンピック競技」とは大きく違い、町の公園などで始まった遊びの延長のような競技がオリンピックにふさわしいのか、眉をひそめる人も少なくはありません。正直に言いますが、私もそのひとりでした。
しかし実際にオリンピックなどで見ると、こうした「新しいスポーツ」には、旧来のスポーツにはない、あるいはかつてはあったのに、いつの間にか死に絶えてしまった美しい「文化」があります。アスリートたちが心から互いをリスペクトする姿です。
多くのアスリートが全身全霊を尽くして戦ったパリオリンピック。メダルを懸けた戦いである限り、そこには勝者と敗者が存在する 【 】
パリオリンピックでは、スポーツクライミングの女子ボルダー&リード決勝戦でも印象的なシーンがありました。最後の1人を残して首位に立ったアメリカのブルック・アラバトゥー選手が、最後の選手、スロベニアのヤニア・ガルンブレット選手が超難関をクリアしてアラバトゥー選手のポイントを超えていく姿を見て、興奮して立ち上がり、拍手をしながら大きな声をかけたのです。
金メダルを争うライバル同士。互いに心からリスペクトし、その失敗を祈るどころか、成功するのを見て、同じ競技の愛好者として心から興奮している姿は、「旧来のスポーツ」ではもう見られるものではありません。
ひるがえって私たちが愛するサッカーという競技を考えると、昨今では、ただただ勝負にこだわり、勝つことですべてが正当化されるという「文化」に、世界中が染まりつつあるように思われてなりません。相手にはひたすら失敗を願い、その結果の勝利であっても、勝ったチームは称賛されます。そして勝利が大きな経済的な利益に結びつくことで、その傾向はさらに加速しているように感じられます。その結果、対戦するチーム同士のリスペクトなど、レフェリーに対する紙のように薄いリスペクトの次に軽いものになっています。
こんな競技が、いつまでも人々の心をとらえ続けることができるのでしょうか。「それがサッカーという競技」などとうそぶいていたら、いつの間にかスタジアムには閑古鳥が鳴く状態になってしまうに違いありません。
しかし私たちの目の前には、オリンピックで新しい競技の若者たちが示してくれた素晴らしい「お手本」があります。彼らの互いに対するリスペクトを、サッカーに関わるすべての人が学ぶべきだと、私は強く思うのです。
四十住さくら選手のコメントは、もう少し続きます。
「でも決勝には行きたいので。ちょっと変な気持ちになっちゃうんですけど、行けるように祈ります」
「ひとの失敗は祈らない」という神のような気高さと、それでも「決勝に行きたい」という人間的な望み―。「明日はサッカー場に行くのはやめて、こんな選手のパフォーマンスを見に行きたい」と思う人は、決して少なくはないでしょう。
金メダルを争うライバル同士。互いに心からリスペクトし、その失敗を祈るどころか、成功するのを見て、同じ競技の愛好者として心から興奮している姿は、「旧来のスポーツ」ではもう見られるものではありません。
ひるがえって私たちが愛するサッカーという競技を考えると、昨今では、ただただ勝負にこだわり、勝つことですべてが正当化されるという「文化」に、世界中が染まりつつあるように思われてなりません。相手にはひたすら失敗を願い、その結果の勝利であっても、勝ったチームは称賛されます。そして勝利が大きな経済的な利益に結びつくことで、その傾向はさらに加速しているように感じられます。その結果、対戦するチーム同士のリスペクトなど、レフェリーに対する紙のように薄いリスペクトの次に軽いものになっています。
こんな競技が、いつまでも人々の心をとらえ続けることができるのでしょうか。「それがサッカーという競技」などとうそぶいていたら、いつの間にかスタジアムには閑古鳥が鳴く状態になってしまうに違いありません。
しかし私たちの目の前には、オリンピックで新しい競技の若者たちが示してくれた素晴らしい「お手本」があります。彼らの互いに対するリスペクトを、サッカーに関わるすべての人が学ぶべきだと、私は強く思うのです。
四十住さくら選手のコメントは、もう少し続きます。
「でも決勝には行きたいので。ちょっと変な気持ちになっちゃうんですけど、行けるように祈ります」
「ひとの失敗は祈らない」という神のような気高さと、それでも「決勝に行きたい」という人間的な望み―。「明日はサッカー場に行くのはやめて、こんな選手のパフォーマンスを見に行きたい」と思う人は、決して少なくはないでしょう。
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