いつまでも“等々力”は、特別な場所(前編)

川崎フロンターレ
チーム・協会

【(c)KAWASAKI FRONTALE】

この夏、日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会で川崎フロンターレU-18はクラブの歴史上初となる決勝の舞台に立った。

天候不順による試合中止や試合開始時間の延期など準備が二転三転し、臨機応変な対応力も試される状況もあったなか、初戦の敗戦から“奇跡的に”勝ち上がり、準決勝ではアディショナルタイムに同点に追いつき、9人全員がPKを決めて決勝の舞台へ。

かつてフロンターレU-18で汗を流した卒団生たちも多数応援に駆けつけたなか、悪天候による影響で40分一本勝負という異例の方式で開催された決勝では惜しくも敗れ、悔しさも味わった。

「10年前はアカデミーにスカウトもいなくて、いい選手は他のJクラブへ行き、なかなか集まらなかった状況から今ではトップチームのおかげもあり、フロンターレに入りたいという選手が増えてきました。もうひとつは、ジュニアからトップチームまでの一貫指導が根づいてきたこと。昨年、Anker フロンタウン生田ができて、カテゴリー毎に別々に練習していたのが、同じ場所で練習でき、食事も練習後にすぐに摂れるようになったことも大きいですね。そうした積み重ねが、ようやく結果として表れて、この夏のU-18、U-15のクラブユースの結果につながったのではないかなと思います。また、U-18に関しては、昨年の戦い方を踏まえて、今年はフィジカルのメニューを強化して取り組んできたことも結果につながったのではないかと思います」(育成部長 山岸繁)
 
高円宮杯 JFA U-18サッカープレミアリーグ 2024 EASTで優勝をめざし、その先のファイナルで勝つために―。

9月7日は、U等々力でFC東京と対戦する。

その指導者たちも、かつてのフロンターレ戦士たちであり、それぞれの心に特別な想いがある。

Story1 ~感謝の気持ちを持って挑む U-18コーチ/玉置晴一

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「U-18は高1~高3まで一緒にやるため、底上げすることが僕の仕事。1年生でも試合に抜擢されるチャンスはあるので、なんとか選手たちを引き上げて、レギュラーを脅かすような選手を育てることを意識して取り組んでいます」

中学生年代までは、比較的学年での縦割りだったのが、高校生になると1年生から3年生まで横一列での競争になる。そのことで、なかなか試合に出られず、モチベーションを保つことが難しいと感じる選手たちもいるため、コーチとして彼らと向き合うことが玉置コーチの役割のひとつなのだという。

「根気強く、個人の力を引き上げてできることを増やし、自信をつけること。基準を落とさず伝えていくことで、チャンスがきたときにできるようにしておくことは意識しています」

玉置自身、アカデミーの指導者として小学生から高校生まであらゆる年代に携わってきた。そうしたなかで、大事にしていることは「どう伝えたかよりも、どう伝わったか」だという。

「ひとつの言葉でも受け取り方が全然違うので、選手の反応とか表情は気にしています。こちらが伝えたことで満足するのではなく、選手にきちんと伝わったのかどうか。一人ひとり性格も受け取り方も違うので、自分の伝え方やタイミングが違うと感じたら、言い方を変えてみたり、自分自身もそれによって気づかされることもあります」

2006年のU-12立ち上げ時から、多くのプロ選手の幼少期に接することができたのは財産だと語る 【(c)KAWASAKI FRONTALE】

玉置自身は、2001年に愛媛県立今治工業高校からフロンターレに加入し、3年間在籍し、ケガの影響もあり3年後に引退を決断している。

その後、若くして指導者としてのキャリアをスタートしたため、現在アカデミーに携わる指導者のなかで、最も歴が長い。トップチームに昇格していった選手たちの幼少期にも多く触れ合う機会があった。

「U-12の立ち上げからコーチとして携わることができたことは、財産だと思います。1期生の選手(板倉滉、三好康児)がトップで出たときは感慨深かったですね。テン(宮城天)は、天才肌な子でしたが、結果に対して、『今日は点取ってないじゃん』とか、『相手に負けてるよ』とだけいうと、自分でやり始める子でした。ヒナタ(山内日向汰)に対しては、ロジカルに説明したり提案していくアプローチをしていました。由井(由井航太)の幼少期も見ていて、まだ当時はプロ選手になるところまではイメージがしにくかったですが、ボールを奪うことに関しては、刈り取る能力が高かった。(田中)碧は、すっと体を入れて奪う感じでしたが、由井は相手にばちんと身体をぶつけて奪うことに長けていました」

2013年U-12を率いる。宮城天、山内日向汰以外にもプロ選手が育った 【(c)KAWASAKI FRONTALE】

まだ20代の頃、アカデミーの指導者になった時に誓った夢があった。

「僕は選手のときに何もできなかったので、等々力で活躍する選手を育てること」

その夢は、指導者である限り、ずっと続いていく。

「高卒で社会を知ったのもここフロンターレですし、いろんな方にいろんなことを教えてもらって今があるので、だからこそ、等々力で活躍する選手を育てたいという夢はずっとありました。当時、チームメイトだったヤスさん(長橋康弘U-18監督)、ガミさん(浦上壮史U-18GKコーチ)、ヒデさん(佐原秀樹U-18コーチ)、池さん(池田トレーナー)と一緒にやらせてもらっているのも、不思議な縁であり感謝しています」

Story2 ~プロとして戦えるディフェンダーを育てる U-18コーチ/佐原秀樹

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1997年、川崎フロンターレの高卒第一号選手として桐光学園高校から加入したのが佐原秀樹だった。高校時代は、中村俊輔と同期で、「キャラではなかった」というキャプテンを任され、選手権では準優勝。1997年にはブラジル・グレミオへ交換留学をし、最初は「日本人はサッカーが下手だと思われていて悔しい」という日々を過ごしたなか、最後には実力を認められて、公式戦にも出場した。

選手を引退したのは2010年のこと。途中2008年から2年間FC東京へ期限付き移籍を経験、2009年には当時のナビスコカップでフロンターレと決勝で当たり、FC東京の一員としてタイトルを獲得している。

引退した2010年は、小林悠が加入した年で、シーズン当初リハビリで一緒に過ごすことも多かったため、小林は「ヒデさんがいじってくれがおかげで、チームに溶け込めた」と当時話している。2010年リーグ最終戦はアウェイの仙台戦だったが、ベンチで90分を終え、まだ発表前だったが引退を決めていた佐原は、グラウンドを一周するなか、メインスタンドに母親がいるのを見つけ、現役最後となったユニフォームを手渡した。

帰りの新幹線で、「ステキなプレゼントをありがとう。それだけでも幸せでした」という母からのメールが届いた。

隣に座っていた小林に気づかれないように、泣くのを堪えるため景色を見ているふりをして窓の外をずっと見ていたという。

それが、佐原にとってフロンターレ選手として最後の試合だった。

現役時代は「3」をつけ、期限付き移籍していた2年間は欠番となった 【(c)KAWASAKI FRONTALE】

これから先、100年、200年とフロンターレが続いていこうとも、1997年に高卒第一号選手だった佐原秀樹の名前はクラブの歴史に刻まれるだろう。

また、フロンターレの選手としてJFL、J2、J1、ACLというカテゴリーで出場した、たったひとりの選手であることも付け加えておきたい。

セカンドキャリアをフロンターレでスタートさせた佐原はU-12監督などを経て、2020年にU-18コーチに就任した。

近年、高井幸大、神橋良汰、松長根悠仁、由井航太、土屋櫂大ら守備のスペシャリストのトップチームへの昇格が続いていることも特筆すべきことだろう。

「それは、単にタイミングだと思います。一番は、トップチームに何人もの選手を昇格させることが自分たちに与えられている仕事だと思うし、個の能力を伸ばしてあげること。センターバックはチームの中心でもあるし、ゲームの勝敗を左右するポジションだから、そこがしっかりしていればチームの勝率が高くなる。自分がやっていたポジションだから、より感じるのかもしれないけど、センターバックはコミュニケーションが取れたり、声でチームを鼓舞することはもちろん、純粋にどうやって守ればピンチを防げるか、というコーチングも大事だと思います。ちゃんとリーダーシップが発揮できる選手を育成できたらなと考えて指導しています」

2016年U-12を率いる。高井幸大、松長根悠仁(後列右)、1学年下の由井航太(2列目左から4番目)らがいる 【(c)KAWASAKI FRONTALE】

U-18コーチになってからは、映像を使って振り返りを一緒にすることが多いという。

「映像を見せながら『この時、どう思ってた?』と聞いたりします。自分なりの答えはもちろん持っていますけど、どう考えているかまずは聞いたうえで、一方通行にならないように話をするようにしています。ポジション的にセンターバックは失点に絡むこともあるけど、たとえミスが重なったとしても最後にセンターバックがしっかりしていたら失点は防げたなというシーンもたくさんあるんですよね。そこは映像という事実を見せながら、会話することを大事にしています」

クラブユースが終わって間もなくして、フロンターレU-18は片道9時間かけてバス移動をし、和倉ユースに参戦、大会3位という結果を残した。

準優勝で終わったクラブユースのメンバーに入れなかった選手、わずかな出場時間だった選手たちが中心となって佐原コーチの元、和倉ユースは挑んだ。

「後半戦に向けて個人のアピールの場だよ、と選手たちには大会前に伝えました。対戦相手の強豪チームにはベストメンバーを組んできた相手もけっこうあったので、手応えもあったかなと思います。全員悔しい思いをしていた選手たちでしたが、勝ちながら個人も成長できた大会だったんじゃないかと思います」

自らの経験も活かして、トップチームに選手を昇格させることが仕事だと語る 【(c)KAWASAKI FRONTALE】

いよいよ9月7日は、U等々力でプレミアリーグ後半戦が幕を開ける。佐原にとっても、等々力は昔も今も特別な場所だ。

「選手の時と同じなのは、会場に着いたらまずは芝の状態を確かめにいくこと。僕にとって一番懐かしい等々力の思い出は、FC東京に期限付き移籍した時に、等々力に来て右側のアウェイチームの導線で入ったこと。今でもU-18の試合前に準備のためにピッチに入りますけど、周りにビルが増えたとはいえ、ピッチに立ったときのスタジアムの雰囲気とか景色は変わらず“ホーム”感が強いです」

(取材・文:隠岐麻里奈)

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著者プロフィール

神奈川県川崎市をホームタウンとし、1997年にJリーグ加盟を目指してプロ化。J1での年間2位3回、カップ戦での準優勝5回など、あと一歩のところでタイトルを逃し続けてきたことから「シルバーコレクター」と呼ばれることもあったが、クラブ創設21年目となる2017年に明治安田生命J1リーグ初優勝を果たすと、2023年までに7つのタイトルを獲得。ピッチ外でのホームタウン活動にも力を入れており、Jリーグ観戦者調査では10年連続(2010-2019)で地域貢献度No.1の評価を受けている。

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