【浦和レッズ】試練を乗り越えた井上黎生人をさらに奮い立たせる数々の言葉「攣ってんじゃねえよ」「お前の父さん…」

浦和レッドダイヤモンズ
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 新体制発表記者会見が行われた冬から春を過ぎ、季節は夏に変わっていた。

 7月14日のJ1リーグ第23節、京都サンガF.C.戦で、井上黎生人は浦和レッズ加入後、初先発を飾った。

「ジョアン(ミレッGKコーチ)から、『心は熱く、頭は冷静に』という言葉を掛けてもらったのですが、前日にいい意味で気が張っていたからか、逆に試合にはリラックスして入れました」


 アウェイだったこともあり、前泊したホテルでは、久しぶりの緊張感と高揚感に包まれていた。

「約7カ月ぶりのスタメンだったので、自信はあるけど、当然、試合勘は薄まっている。練習試合も限られていましたし、公式戦の出場に至っては、途中出場したジュビロ磐田戦(第21節)で5分程度、プレーしたくらい。

 常時スタメンで出場している選手とは、一緒に練習しているとはいえ、同じグループで練習する機会は限られていた。果たして、周りとの連係は合うのだろうかとか。少なからず不安はありました」

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 浦和レッズに加入して7カ月目にしてつかんだチャンスに嫌でも緊張感は高まった。運命の悪戯か、対戦相手が前所属先の京都だったことも高揚感を誘った。

「怪我人が出たり、出場停止の選手がいたりと、アクシデントがあったタイミングで、出場するチャンスを得ることもあるだろうと思って、常に準備はしていましたが、まさか古巣との対戦で、その機会が訪れるとは。

 久しぶりに緊張して、なかなか寝つけなかった。目がパッチリして、ずっとドキドキしているみたいな。サッカー以外の動画を見て、リラックスして過ごそうとしていたんですけどね」

 目では映像を捉えているが、頭の中では、翌日の試合やこれまでの日々——さまざまなことが駆け巡っていた。


「うん。苦しかったですね」

 そう言って、井上はこの7カ月を振り返る。

「プロとしてのキャリアをスタートさせたガイナーレ鳥取時代も、試合に出られない時期はありましたけど、出場機会を得られるようになってからは、ここまで長く試合に出られないのは初めてでした。
 当時とは、年齢も違うし、カテゴリーも違うので、まったく同じ状況ではないですけど、特に妻と出会ってからは、こうした時期はなかったので、初めて家族に見せる姿でした」

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 妻は態度や表情では気にする素振りを見せず、それでいて井上の心境や心情を慮ってくれていた。その優しさがうれしくもあり、結果的に気を遣わせてしまっている自分が、情けなくもあった。

「気を遣っていないようで、やっぱり気を遣ってくれていて。家では、葛藤や悩んでいる姿を見せてしまっているんだなって、自分にがっかりしました。この期間は、チャンスをつかめそうなときに怪我をしたり、気持ちの波も激しかったりと、ホント、いろいろなことを考えた時期でした」

 それでも歯を食いしばって、前を向き続けてきたのは、家族をはじめ、周りのサポートがあったからだ。

「自分が悩んでいるたびに、ノブさん(池田伸康コーチ)やサコさん(前迫雅人コーチ)が声を掛けてくれました。(興梠)慎三さん、(岩尾)憲さん、(酒井)宏樹さんも、ずっと自分を気に掛けてくれていた。本当にその存在があったから、ここまで頑張れてきたと思っています」


 京都戦は、練習してきた左センターバックではなく、右での出場だった。そこでも多くの人たちが、協力してくれた。

「試合前日に練習して、左と右ではだいぶ感覚が違うなと思って。ノブさんやサコさんには、このときだけでなく毎日ですけど、居残り練習に付き合ってもらったし、試合前には主務のツカちゃん(塚越健太郎)にも手伝ってもらって調整していきました。左と右では、トラップしてボールを置く位置、体の向きや動きが攻撃でも守備でも変わってくるので」

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 家族、スタッフ、そしてチームメート、多くの人たちの思いを胸に、井上はピッチに立った。

「浦和レッズに加入してから今日まで、プレーしている姿を見せられなかったことが一番、悔しかった。覚悟と決意を持って京都を離れたのに、応援してくれる人たちにも、結局、試合に出られず残念な思いをさせていた。

 それでも自分の周りには、(出場機会を)待ってくれている人たちがたくさんいた。そういう人たちにプレーする姿を見せられたことが本当によかったと思っています」

 センターバックとしてコンビを組んだマリウス ホイブラーテンには、試合前に「自分が合わせるから」と伝えた。


「本来、ディフェンスリーダーとして、『自分に合わせろ』と言って、引っ張っていくべきだとは思うんですけど、僕自身は相手に合わせるプレーもできるので、マリウスがやりやすいようにプレーすることが、チームのためになると考えました。マリウス自身も、彼がリーダーシップを取る立場になれば、気合いも入るだろうし、僕がピンチのときはカバーもしてくれるかなと思って(笑)」

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 心がけたのは、センターバックに必要な確実かつ堅実なプレーだった。

「1点が勝敗につながるような展開だったので、リスクのあるプレーを選択してミスをしてしまうと、自分の自信も削がれるし、チームの状況も大きく変わってしまう。だから、なるべく欲は出さずに、まずは自分にできることを確実にやろうと思ってプレーしました。だから、僕自身は難しいことはほとんどしていないですし、周りがうまいので、シンプルに味方にボールを預けることを意識しました」

 41分には相手の右からのクロスに井上がヘディングでボールをわずかに逸らすと、相手にわたって決定機につながった。しかし、素早くゴール前に入った井上が相手のシュートを弾き返し、ピンチを救った。

「本来は、クロスに反応した1発目で弾き返したかったんですけど、自分の歩幅とスピードが合わずに触るのが精一杯でした。スルーするのはリスクがあるので、軌道を変えたかったんです。ただ、後ろにはタカさん(関根貴大)、(西川)周作さんもいたので、守れる自信はありました。


 そのあと、ゴール前に入って、相手のシュートをクリアできたのは、決してたまたまではなく、自分で危険を察知して、あそこにポジションを取れた。そこは自分の考えや感覚が合っている、残っている手応えを得て、自信になりました」

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 井上は、「よく『怪我から復帰した選手にとっては試合が一番のリハビリになる』と言いますけど、同じように試合をしながら自分の感覚や感触が研ぎ澄まされていきました」と語る。

 確実なプレーを意識したというが、攻撃でも的確なビルドアップを見せた。

「ウイングのポジションにいる選手によって出すパスを使い分けました。例えばですけど、スピードのある松尾(佑介)ならスペースに、技術で勝負するトモ(大久保智明)なら、足もとで受けたいだろうから、足もとにピタッとつけることを意識しました。

 (伊藤)敦樹や(安居)海渡もいい位置にポジションを取ってくれていたので、ショートパスと見せかけてロングボールを蹴ったりと、パスを使い分けました。そこは、浦和レッズに来て成長を実感できたプレーでした」

 初先発した試合で、勝ち点3をもたらすことはできなかったが、DFに求められる無失点で試合を終え、アウェイで勝ち点1を手にした。

「まだまだ、やりたかったなって。足が攣ってしまったのは本当に久しぶりのことでした。純粋にサッカーが楽しかったし、まだまだプレーを続けたかったというのが、正直な気持ちです」

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 足が攣り、84分に交代した姿を見て、昨季まで指導を受けた曺貴裁監督からは、試合後に「足攣ってんじゃねえよ」と笑われた。

「曺さんは多くを語らない人なので、それだけで十分なんです」

 その一言には、「もっとお前はやれるだろう」、「まだまだだな」といった愛情と叱咤激励が込められている。

「ノブさんやサコさんを含め、多くのチームメートが『よかったな』って言ってくれて、まるでプロ1年目のルーキーみたいでした」

 DAZNで試合を見ていたという妻は、いつものように「(試合に出場できて)よかったね。お疲れさま」と言ってくれた。曺監督と同じく、井上にとってはその一言が、何より、いつもどおりだったことがうれしかった。

「息子がいつも学校で『お前のお父さん試合に出ているのか?』って言われていたみたいなんですよね。その話を聞くたびに心が痛かったし、家族のためにも、試合に出たいと思っていたんです。そうしたら、先日、早速、友だちに言われたみたいなんですよね」

 子どもが友だちから言われた言葉をうれしそうに教えてくれた。

「お前のお父さん、試合に出てたじゃん」

「めっちゃナイスだったね!」

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 家族や周りの笑顔のために、プレーしていることを実感した。

「うまく言葉にできないところもあるんですけど、試練の時間だったなって思います。この7カ月は、乗り越えるための時間だったと思うし、27歳という年齢で、また一つ成長できたと思います。いい経験とは言わないですけど、大事な経験だったなと。

 今までも自分のためにプレーしているのではなく、家族のためであり、ファン・サポーターのために頑張り続けようと思ってきたことは間違っていなかったと、改めて気づきました」

 黎生人——両親が考え名付けてくれた名前には意味がある。

「黎には、はじまるという意味があると教えてくれました。人が生まれて何かを始めるという思いが込められていると」

 初めてメンバー入りしたときも、初めて途中出場したときも、ここからが「スタート」と話していた。同じように京都戦での初先発も「スタート」だと言う。

 それは常に姿勢が変わらないことを意味している。試合に出られずとも、試合に出ていようが、井上の姿勢が変わることはない。

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(取材・文/原田大輔)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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