【浦和レッズ】先発出場が続く石原広教が噛みしめる責任とよろこび「レッズに来て良かった」「あの歓声を浴びたい」

浦和レッドダイヤモンズ
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【©URAWA REDS】

すでに夜中に差し掛かる時間だった。妻がハンドルを握る車の助手席でスマートフォンの画面をずっと眺めていた。いましがた終わったばかりの柏レイソル戦の映像である。

 柏市内のスタジアムから自宅に戻るまでの約2時間、右サイドバックで先発フル出場した石原広教は、独り言をつぶやきながら試合をじっくり見返した。

「直後に見るのが大事なので。頭で覚えていないプレーもありますし、いつもすり合わせをしているんです。感覚的に悪いと思っていても、そこまで悪くないプレーもあります。逆もしかりですけどね」


 チームスタッフから渡される俯瞰した映像を含め、計2回は出場した試合を必ずチェックする。

 柏戦は相手のプレスをはがすプレーは悪くなかったものの、気になったのはオーバーラップの回数が少なかったこと。もう少し高い位置を取れた場面もあり、味方への要求もさらに必要だったという。

「多くの課題はありますが、もっとできるプレーもたくさんあります。まだ100%ではないです」

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 遠慮なく自分の特徴を出すことに集中したサガン鳥栖戦とはまた違った。移籍後初先発からの2試合目は、個人だけではなく、全体のバランスにも目を配り、「前節以上のパフォーマンスを出さないといけない」と自らに言い聞かせた。

「監督、チームメイト、ファン・サポーターの見方も変わってきますからね。試合に出続ける以上、調子の波をつくってはいけないと思っています。その出発点が柏戦でした」

 言葉には危機感がにじむ。たとえ、試合を重ねていっても、レッズでのデビュー戦で見せた勢いを忘れるつもりはない。『慣れ』は禁物だと胸に留め、緊張感を持ち続けている。

 4月3日のFC東京戦で酒井宏樹が負傷し、急きょ巡ってきたチャンス。絶対的な存在ともいえるキャプテンを脅かし、超えていくのは並大抵ではない。もちろん、本人が一番、状況は理解している。印象点だけは立場を逆転するのは難しい。


「ゴール、アシストという目に見える数字を残し、違いを見せないといけないと思っています。それを積み上げていけば、もっと上にも行けます。結果を出すにも、よりゴールの近くでプレーする機会を増やしていきたいです」

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 3月10日の北海道コンサドーレ札幌戦でクロスに飛び込み、豪快なヘディングシュートを決めた酒井の得点シーンは目に焼き付いている。機を見て、前線に駆け上がる先輩のプレーからは見習う点が多い。

 チーム戦術として積極的に促されているわけではないが、すべてはタイミング次第。前線の選手をポスト役に使い、ワンツーでペナルティーエリア内に侵入していく形もイメージしている。

「宏樹さんのように隙を突いて、ゴール前に入って行きたい」

 長い距離のスプリント回数は、Jリーグでもトップの数値を叩き出す自信を持っている。自陣から何度も飛び出していくスタミナは大きな武器。守備から攻撃の切り替えでは、存分に持ち味が生きる。中距離ランナー顔負けのスピード持久力を持つ男は、あふれる意欲をのぞかせる。

「ウイングよりも早く出て行くくらいの意識はあります」

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 土台となる脚力は、幼少期から培ってきたものだ。神奈川県藤沢市で育ち、地元のサッカー少年団・藤沢FCでは練習後に必ずグラウンドを7周、8周と仲間たちと競争しながら全力で走っていた。

 オフも休みはなし。昔、体操に打ち込んでいた母親と一緒に朝からランニング。コースは生易しいものではない。藤沢市内から江の島まで走り、帰り道は茅ヶ崎経由で自宅に駆け足で戻ってくる。

 推定の総走行距離は10km以上。自転車に乗った母が伴走し、妥協を許さなかったという。小学校3年生で湘南ベルマーレのジュニアに加入して以降も、走りを続けていた記憶がある。

「母はかなりストイックでしたね。『上に行く人は自主練をしっかりやるよ』と言われ、空き時間ができれば、近くのグラウンドでボールを蹴っていました。少しでもうまくなりたかったので、続けていました。あの母がいなければ、僕はプロになっていないと思います」

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 湘南のジュニアユース、ユース時代には、チームで徹底的に走力を鍛えられた。当時はグラウンドの環境が整っておらず、ピッチでボールを扱うよりも走るメニューが多かった。

 橋から橋の長い道のりを懸命に走り、河川敷の坂道、勾配のある平塚海岸の砂浜も数え切れないほどダッシュした。地獄のようなトレーニングは、いまでもはっきりと覚えている。


「土手の坂を100本くらい走る日もありましたよ。正直、嫌にもなりましたが、周りの選手たちに負けたくなくて。自分に必要なものだと思っていました。

 それが正しい成長の道なのかどうかは分かりませんが、僕には合っていました。きっと他のクラブであれば、プロになれなかったかもしれない。浦和にも走ってたどり着いたようなもの」

 冗談まじりに話すが、その表情には充実感が漂っていた。上り詰めてきたクラブで初めてホームのピッチに立ったときの光景は、いまも脳裏から離れない。

 ゴール裏もバックスタンドもメインスタンドも、ぐるりと見渡すかぎり真っ赤。そして、埼玉スタジアムのピッチで受けた大声援に鳥肌が立ち、自然と背中を押された。アウェーの柏戦では大ブーイングの洗礼も浴びたが、ビッグクラブの一員であることをあらためて実感した。

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「レッズのユニフォームを着て、ピッチに立つ責任を感じました。一つの負けも許さないクラブなんだなって。当然、覚悟はしていました。ただ、プレッシャーが大きい分、勝ったときにはそれを上回るよろこびがあります。本当にレッズに来て良かった。雰囲気も緊張感を含めて、中毒になりそうです」

 4月20日の第9節は本拠地に西の雄、ガンバ大阪を迎える。すっかり浦和色に染まった25歳は、伝統のカードに思いを馳せる。


「僕らの時代は“ナショナルダービー”と言われていましたよね。ホームでは絶対に負けられないし、勝たないといけない相手。どん欲に勝ちにこだわり、チームのためにとことん走って闘います。また勝利を一緒に分かち合いたいし、あの歓声を浴びたいです」

 新しい背番号4のチャレンジは、スタートしたばかり。さらなる飛躍を期待し、最後に「ここからですね」と言葉をかけると、席を立ち上がりながらふと口元を緩めた。

「まだ始まっていないですよ。いや、もう始まっているか」

本領発揮がここからなのだろう。真価が問われる一戦に向けて、胸を躍らせているようだった。

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(取材・文/杉園昌之)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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