30周年特別コラム vol.1「安齋悠人 地元・福島県から始まった第一歩」

京都サンガF.C.
チーム・協会
今年設立30周年を迎えた京都サンガF.C.は、設立以来「夢と感動を共有し、地域社会の発展に貢献する」というクラブ理念のもと活動し、試合の勝敗だけでなく、地域やサンガに関わる全ての方と共に「地域の誇りとなるクラブ」を目指してきました。
これからも地域の皆様とつながり、そして愛されるクラブになるよう、活動を続けていきます。

安齋悠人 地元・福島県から始まった第一歩

【ⒸKYOTO.P.S.】

31年目を迎えるJリーグが開幕し、各地で熱い戦いの火ぶたが切って落とされた。様々なプレーやトピックが生まれた中で、一人の高校生が注目を集めている。安齋悠人、卒業式を一週間後に控えた高校生は1点を追いかける試合終盤に交代出場でピッチに入ってJリーグデビューを果たすと、終了間際に同点ゴールを決めた。

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チームを救う値千金のゴールは、個人としても記録に残るものとなった。高卒ルーキーが開幕戦で初出場・初得点を決めたのは1994年の城彰二(市原/現千葉)、1998年の高原直泰(磐田)以来、26年ぶり3人目となる快挙だ。高校サッカーでも注目を集めていた新星が、プロの舞台で華々しい第一歩を刻んでいる。

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翌週のホーム開幕戦となった第2節を戦った後、家路に就く選手たちとは別に、安齋は尚志高校で行われる卒業式に出るため地元・福島へ向かった。限られた時間ではあったが、仲間や恩師や家族らと共に憩いのひと時を過ごしている。

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福島県福島市出身の安齋は東日本大震災を5歳で経験した。保育園で昼寝から目覚めておやつの時間を迎えている最中に、立っていられないほどの大きな揺れを感じた。「先生たちに囲まれたり、机の下にもぐったりして、その後にお母さんが迎えに来てくれた」ことを覚えている。安齋の住んでいた場所は大きな被害はそれほど無かったが、食料や水では苦労したという。水道が出なくて街に給水車が訪れた際、家族と一緒に安齋も並んだこともあった。震災直後は自分の生活に関することしかわからなかったが、小学生になって授業で学ぶようになり、詳しいことを知っていった。
安齋が最もストレスを感じたことは、外に出れなかったことだ。昼寝の時間が嫌だった安齋少年にとって、震災から1年近く保育園に通うことができずに朝から晩まで自宅にいる環境は「けっこうキツかったです。親にも『外へ出たい!』とよく言って困らせていました」。卒園が近くなってようやく通園できる日が増えてゆき、小学生になると毎日学校へ通う日々が戻ってきたが、首から放射線量の測定値を下げて行動することが義務付けられるなど制限があり「学校にも付けて行かなきゃいけなくて『嫌だ、嫌だ』と言っていた記憶があります」。学校が終わっても外で遊ぶことができず、帰宅して家の中で過ごすという状況は続いていた。

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サッカーを始めたのは小学2年生。家の壁に向かって一人でボールを蹴る姿を見た近所に住む親戚が、自分の息子が通うチームの練習に誘ってくれたことがきっかけだった。最初は体育館中心で、次第に外でもプレーできるようになっていくが、外で練習や試合を行うときは参加できない選手もいた。「僕の親は外で遊ばせてあげたい方針だったんですが、友達の中には『親が危ないから駄目だって』という子がけっこう多かったです」。

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尚志高校で安齋を指導した仲村浩二監督は「福島県の子は、小さい頃に外で身体を動かす機会が少なくて、そこに関しては県外の子と比べてハンデがあったんじゃないかと思う」と話している。ボールを扱うテクニックとは別に、あらゆる動作や競技のベースとなる基本的な身体を動かすスキル。これは幼少期の遊びを通じて養われるケースも多いが、震災により制限のあった福島県の子供は、その場を奪われていた。

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そんな環境の中でも安齋はサッカー選手として着実に成長してゆき、高校は県内の強豪校・尚志高校に入学する。進路を決めた理由の一つは、福島県の選手でもやれることを証明したいという思いだった。「尚志高校の活躍をテレビで見ていたんですが、福島県のチームなんですが県内の選手が少なくて。父に相談しても『それだけ県外の選手が上手いんだよ』と言われましたが、僕は負けず嫌いなので県外の選手に負けるイメージはなかったです」。自分ならやれる、という自負と共に「福島県の選手もいた方がいい」という思いもあったという。震災を経験した自分が福島県の高校で活躍して、多くの人に勇気を与える――こうした明確な考えは進路を決める中学3年の時点ではなかったのかもしれないが、そうした思いが心の中にあったのは間違いない。そして高校2年から出場機会をつかむと、一気に全国区の存在へと駆け上がっていった。

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尚志高校では多くの注目を集めて、メディアに取り上げられることも多かった。安齋はそんな状況に一喜一憂することなく 「回りからの目は、あまり気にしていません。結果として注目されているとしても、まだまだ上を目指したいです。行けるところまで行って、そこで回りからの評価や見られ方を気にしたいです」と自身にベクトルを向けて、向き合おうとしている。
そんな風に話す安齋が、自身の影響力を感じる出来事があった。開幕戦のゴールの後、スマートフォンには200件ほどの連絡が届いたのだが、その中にサッカー部でいつも2人1組で練習をしていた友人からのものがあった。「高校3年間、家族よりも一緒にいた時間が長い仲間たち」の一人であるその友人は現役生活を高校で区切りをつけて、進学先の大学ではサッカーをやらないと話していた。安齋も「続けたらどうだ」と話したが、首を立てには振らなかったという。そんな友達からのメッセージは「お前から刺激をもらった。改めて、がんばろうと思う。サッカーを続けるよ」というものだった。「自分のゴールで友達がサッカーを続けてくれる。些細なことだけど、嬉しかったです」と安齋は口元を緩めてた。

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鮮烈なデビューを飾っただけに、今後は警戒されることもあるだろう。だが、これまでも立ち塞がる壁を乗り越えて、ここまできた。「自分のドリブルで局面を打開する。三笘選手が評価されているように、日本のサッカーにもドリブルは必要とされているはずです。日頃の練習から武器を発揮して、曺さん(曺貴裁監督)の信頼をつかんで、『こいつを使おう』と思ってもらえるようになりたいです」。そして「自分ならできると思っています」という言葉も付け加えている。

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開幕を約2週間後に控えた2月7日の夕方、京都市内の繁華街で、2024年1月1日に発生した令和6年能登半島地震の義援金を呼びかけるサンガの選手の中に安齋の姿があった。支えることの大切さ、支えられることの心強さを身をもって体験している安齋は、13年前のあの日の体験が脳裏をよぎったであろう大地震で被災し苦しむ方々のために、サッカーだけでなく、この活動も離れた場所で誰かの一歩を踏み出す勇気、困難や壁を乗り越える力、そして笑顔につながると信じ、街行く人に声をかけ続けた。
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日本プロサッカーリーグに加盟するプロサッカークラブ、京都サンガF.C.の公式アカウントです。クラブの最新情報やイベント情報、オリジナルコンテンツなど、様々な情報をお届けします。

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