【浦和レッズ】J3から駆け上がった井上黎生人が浦和レッズで見る夢「リキ、どこ行ってたん?」と言っていた長男が…

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 人は予期せぬことが起きたとき、頭の中が真っ白になって、固まる――。

「本当にそういうことってあるんだなって思いました。『え……!?』みたいな(笑)」

 そんな漫画のような状況に井上黎生人が陥ったのは、昨シーズン終盤のことだった。

 鹿児島実業高校から練習生としてキャンプに参加したJ3のガイナーレ鳥取でプロ入りのチャンスを掴み、J2のファジアーノ岡山、J1の京都サンガF.C.と一段ずつ階段を昇り、26歳にして舞い込んだビッグクラブからのオファー。

 ところが、欲していたものが目の前にぶら下がっているというのに、井上は簡単には手を伸ばせなかった。


「J3からキャリアをスタートして、J1でプレーすることを夢見て頑張ってきました。それが京都で叶うと、さらに欲が出てきて、もうひとつ、ふたつ成長したいし、日本代表にも近づきたいと思うようになって。でも、いざ浦和レッズからオファーをいただいたら、めちゃくちゃ悩みました。正直、人生で一番悩んだんじゃないかって」

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 これまでは上を目指してひたすら努力を続け、その結果として用意されたステージに無心で飛び込んできた。

 しかし、J1でレギュラーを張るようになり、家庭も持った今、わずかに守りの姿勢が生じたのかもしれない。

「心の中ではたぶん『行く』って決めていたと思うんです。でも、何かきっかけが欲しかったというか。これから先の人生を考えたとき、ベストイレブンに選ばれたセンターバックがふたりもいる環境に飛び込むことが、本当に正解なんだろうかって……」

 言うまでもなく浦和にはアレクサンダー ショルツとマリウス ホイブラーテンという23シーズンのJリーグベストイレブンに輝いたセンターバックコンビが在籍している。

 一方、井上も加入2年目となる京都でセンターバックのポジションをがっちりと掴んでいた。残留してJ1の試合にコンスタントに出続けたほうが成長できるのではないか、との考えが芽生えるのも当然のことだろう。


「それに、家族のこともありました。上のふたりの子は高校生ですし、妻も大阪で仕事をしているので、付いて来てくれるのか、単身赴任になるのかとか。僕自身、これまで関東に住んだことがなかったので、けっこう悩みましたね」

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 浦和でチャレンジしたい気持ちは間違いなくあるのに、踏み出すことができない井上は、お世話になった人たちに話を聞いた。

 鳥取の岡野雅行代表取締役GMは、高卒ルーキーだった頃から井上のことをよく知る人物だ。浦和のレジェンドでもある岡野は「レッズからオファーが来るなんて、すごいじゃないか。ここまで来たのはおまえの力だから、自信を持って行ったらいいよ」という言葉をくれた。

 元日本代表の森岡隆三は、鳥取で井上を初めてレギュラーとして起用してくれた監督であり、井上にとってセンターバックの師匠と言える存在だ。

「プロ3年目、4年目のときの監督なんですけど、隆三さんと出会えたのは、僕のサッカー人生ですごく大きくて。考え方を変えてくれた人。DFって強くて高いイメージがあるじゃないですか。でも、考えてやれば小さくても勝てると。隆三さんは身長が僕と同じ180cmくらいで、身体能力も決して高いわけではないけれど、それでもなぜ日本代表に選ばれたのか、っていう話をしてくれて」

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 森岡から「俺とおまえは似ているところがある」と言われたとき、井上は森岡を手本にすることに決めた。

「隆三さんの言葉に『出させて取る』というのがあるんです。わざとスペースを空けて、そこに出させてボールを奪う。相手のプレー選択までコントロールするっていうことなんですけど、僕はそれまで『出させない』っていうイメージだったので、衝撃的で。僕は足が遅いほうなんですけど、隆三さんと出会ってから、予測力でカバーできるようにもなりました」

 そんな森岡からは「浦和に行ったほうがいい」と言われたわけではない。

「隆三さんは『ベストイレブンに選ばれたふたりは、跳ね返せるし、攻撃で違いも生み出せるし、ここ最近のJリーグの中では理想的なセンターバック』だと言っていました。『そんな選手が揃う環境に飛び込むチャンスは滅多にないことだし、素晴らしいクラブからオファーをもらえるなんて、サッカー人生で1回あるかどうかだよ』って」

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 最終的に背中を押してくれたのは京都のチームメイトで、仲の良いク ソンユンだった。この元韓国代表GKには、心の中を見事に言い当てられた。


「『考えすぎると、勇気がなくなるよ。最初に自分が思ったことを優先するのが一番なんじゃないのかな』って。『そう考えると、黎生人の答えはすでに決まっているんじゃないの?』って日本語で言ってくれて、『ええー!』と思って。これはもう、行くべきだなと。踏ん切りがつきました」

 京都の曺貴裁監督にも報告すると、オファーが届いた段階では引き止めた指揮官も、最後は「J3で戦っていた選手や、今J3でプレーしている選手たちが、レッズでやるおまえの姿を見て勇気をもらえると思うよ」と言って送り出してくれた。

「その言葉は嬉しかったですね。僕自身、鳥取のルーキー時代に1年だけ一緒にやらせてもらった馬渡(和彰)さんがその後、フロンターレで試合に出ている姿をテレビで見て、自分も頑張れば行けるのかなって勇気をもらったので。自分のことを見て、同じようにそう思ってくれる選手がいたらいいなって」

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 こうして初めて関東で暮らし始めた井上は、沖縄トレーニングキャンプを経て、すっかりチームに溶け込んだ。

「僕、けっこう人見知りなんですけど、これまでの移籍の中で一番馴染みやすかったというか。歳下の選手たちもどんどん話かけてくれるし、先輩方もそうです。タカさん(関根貴大)はちょいちょいイジってくれるし、(前田)直輝さんもよくしてくれるし、(岩尾)憲さんも話し掛けてくれる。(中島)翔哉さんは変わりもんって言われていますけど、僕、好きなんですよ、すごく面白いなって(笑)」


 ピッチ内ではペア マティアス ヘグモ新監督の戦術への理解を深め、同じく新加入の佐藤瑶大とともにショルツ、マリウスから多くを吸収しながら懸命にアピールを続けている。

「練習自体はすごく楽しいし、今までにやってこなかったことにもチャレンジし始めて、ここならまたひとつ、ふたつ成長できるなって感じています。今は序列が下ですけど、ここで腐るようじゃ成長はないし、地道にやり続けるしかない。今までもそうやって上に上がって来ましたから。

 ショルツ選手、マリウス選手にいろんなことを聞くチャンスもたくさんあるだろうし、あのふたりを超えるためにここに来たので。自分のプレーの幅を広げてレッズでレギュラーになって、日本代表になるという夢に近づけるように取り組みたいですね」

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 井上が在籍した2シーズンの間に京都は浦和と4回対戦しているが、井上が出場したのは2試合、いずれも途中出場にとどまった。

 それでも埼玉スタジアムの印象は深く刻まれている。

「22年にアウェイで埼スタに来たとき、まだコロナ禍の人数制限があったんですけど、それでも今までに味わったことのない独特な雰囲気がありました。スタジアムが満員になったらすごいんでしょうね。早くあのピッチでプレーしたいです」

 古巣となる京都戦のピッチに立ち、かつての仲間や恩師と対戦することは目標のひとつだが、井上にとってガンバ大阪戦も大きな意味を持つゲームである。


 相手ベンチには鹿児島実業高校の大先輩で、憧れの存在がコーチとしているからだ。

「妻とまだ結婚する前、妻の職場にヤットさん(遠藤保仁)が何かの企画で来たんですよ。それで妻が『彼がJ3でやってるんですけど』と言ったら、『誰?』って。『井上って言うんですけど』って言ったら『ごめん、わかんないわ』って。そりゃそうでしょと思って(笑)。でも、色紙にサインしてくれて『J1目指せ』って書いてくれたんです。それは鳥取でも、岡山でもずっと飾っていました」

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 そんな大先輩とピッチで会えたのは岡山時代の21シーズン、J2でジュビロ磐田と対戦したときのことだ。

「ヤットさんに挨拶してお礼を言ったら、『おおー』って。『J1で対戦できたらユニフォームを下さい』ってお願いしたんです。翌年、僕が京都に移籍して、ジュビロもJ1に昇格したんですけど、最初の対戦では僕はベンチだったんで、それで交換するのはダサいと思って。

 次の対戦は最終節で、僕もヤットさんもスタメンだったので、試合後にユニフォームをいただけたんです。昨季はジュビロがJ2だったし、その後、引退されたじゃないですか。だから、もらっておいて良かったなって(笑)。宝物として飾っています。だから、レッズで頑張っている姿を見せたいですね」

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 ベストイレブンに輝いたふたりからポジションを奪い、埼スタのピッチでファン・サポーターの大歓声を浴びながらプレーする。京都戦やG大阪戦で自身の成長した姿を見せる――。

 それだけではない。井上には浦和レッズでのチャレンジに気合いが入る理由が他にもある。

「僕には4人の子どもがいるんですけど、上の3人は妻の子で。今、高3と高1の娘は大阪の妻の実家から学校に通っていて、僕は10歳の長男と2歳の娘と妻と一緒に住んでいるんです。長男はサッカーに興味がなくて、これまでも僕が試合から帰ってきたら『リキ、どこ行ってたん?』って言うくらいだったんです。

 それがこの前、『サッカー始めたい』と言い出して、『えー!』って。すごく嬉しかったし、ショルツ選手、マリウス選手の壁は高いとか言っていられないなって。いい姿を見せたいので、頑張りたいと思います」

 井上には、浦和レッズのユニフォームを着て躍動する姿を見せたい相手がたくさんいる。1日でも早く埼玉スタジアムのピッチに立ち、真っ赤な大観衆が生み出す本物の熱気を体感したい。

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(取材・文/飯尾篤史)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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