<国内男子ゴルフ>池田勇太が「40歳からもうひと花咲かせるために」宮崎で復活を誓うゴルフ伝道の旅
今年最初の“伝道師”は子どもたちの前で、自らを「オジさん」と呼んだ。
「そりゃそうですよ。令和生まれはギリギリ、まだいないと思いますけどきょう会う子たちは僕のことなんか、全く知らないでしょうし」と、苦笑した。
昭和60年生まれの38歳が、ここ宮崎で行われている「ダンロップフェニックス」で優勝したのももう14年前(2010年)。
「あの子たちのお父さん、お母さん世代がちょうどじゃないか。誰?あのオジさん、と。子どもたちには怖がられるかもしれないね」と、心配していたのも初心者用具のスナッグゴルフを使った実技講習会の最初だけ。
お昼休みには1年生が揃ってお誘いに来た。
「待て待て、オジさんは一人しかいないんだ!」。
嬉しい悲鳴が青空にこだましていた。
お互いに全員の名前が言えるし、学年の垣根も軽くまたいでみんなきょうだいみたいに仲良しこよし。
「ケガしないようにね!」
「満点ねらおう!」
「・・・そこの子、グリップがちょっと変だぞぉ?」
「池田プロが優しく教えてくれたから、どんどん上手くなりました」とか、「これから放課後は、絶対にみんなでスナッグゴルフをします」とか、「ゴルフは意外と奥深い・・・」などなど子どもたちも口々に、恒例のガチンコ対決が終わる頃には、みなすっかりとりこに。
ただひとつ、池田が懸念だったのが、このあとみんなと一緒に頂くことになっていた給食のメニューだ。
合計10本の歯を削るなど、大がかりな噛み合わせの治療はまだ半ば。
時には固形物の咀嚼ができず、先週初めも豆腐やおかゆなど、流動食しか喉を通らなかった。
せっかくのこの日も噛み砕けないものが1つでも出てきたらどうしよう、と内心気を揉みながら来たのだが、「サラダもシチューも凄く美味しかったです」と、みんなと一緒に楽しく完食できて安堵した。
まだアマチュアだった大学後輩の金谷拓実との激闘を制して大会2勝目を飾り、感極まる当時の自身の姿。
「若かったね・・・」と、置かれた今の境遇と重ねてついため息が出た。
その前年には賞金王に輝き、リオ五輪では日本代表を務めた。
2019年まで11年連続で通算21勝を重ねて永久シードも間近と言われながら、昨季はついに賞金シードを失い、今季の自身初戦もおそらく5月末にずれ込む見込みだ。
誕生から現在までを書き込む人生年表の締めくくりで「ゴルフをするのがオジさんのお仕事ですが、今はお休みしている段階で、試合に出られないのはとてもツラいししんどいです」と、子どもたちに率直な思いを吐露した。
「年も取ってきて、体力的にキツいこともありますが、それも神様がくれた時間と受け止めます」と、前を見た。
「これから先、ゴルフをしてもどこも痛くならないように。40歳からもうひと花咲かせるための時間かな、と思って今は一生懸命、耐えていこうと思います」と、復活を約束した。
帰り際、教室のバルコニーから「頑張って~」「応援してる!」などと口々に見送られて「ありがと~~~!」。
何度も何度も手を振った。
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