「パラリンピックの父」ルードウィヒ・グットマン博士を知る4つのキーワード
【photo by X-1】
障がいのあるアスリートによる国際的なスポーツの祭典は、イギリスのいち病院で行われた競技数「1」、参加者数「16」の小さな大会からスタートした。その後、回を重ねるごとに規模が拡大。東京2020パラリンピックでは11,420名にも上る大規模な国際大会となっている。スポーツの力で、障がいのある人たちの未来を照らしたグットマン博士。そんな博士の足跡を4つのキーワードでたどってみた。
①「迫害」:戦禍のドイツを逃れてイギリスへ
当時のドイツでは、ヒトラーが率いるナチス政権により、ユダヤ人排除の動きが強まっていた。そのひとつに「ユダヤ人医師はユダヤ人患者のみを治療できる」という制限があったことから、1937年にグットマン博士はユダヤ系病院の医局長となる。
同年11月、「水晶の夜」と呼ばれる歴史的な事件が発生。ドイツ各地でユダヤ人に対する大規模な迫害が起こり、多くの犠牲者を出した。当然、グットマン博士の病院にも多数の負傷者が担ぎ込まれた。このときグットマン博士は、「病院に運ばれてきた人はどんな患者でも入院させて治療する」と決断し、同胞を助けた。
多くの同胞を入院させてかくまったことで、グットマン博士は、ゲシュタポ(当時のドイツ秘密警察)に目をつけられ、パスポートを没収されてしまう。だが、運が味方した。ヒトラーの命令で、ポルトガルの独裁者の友人を治療するためにポルトガルへ渡ることとなり、その帰国時に2日間、イギリスに立ち寄ることが許されたのだ。それ以前から難民を保護するイギリスの機関に連絡を取っていたグットマン博士は、この機会に妻と2人の子どもとともにドイツを離れることを決意。1939年3月、一家はイギリスに亡命し、オックスフォードに家を構えた。
②「リハビリテーションとスポーツ」:スポーツで患者を救う
当時、脊髄損傷による対まひ(自分の意志で運動ができない)患者の余命は、ケガを負ってから2年がいいところ。そこで、グットマン博士は患者の余命を延ばすことに挑む決意した。
あるとき、グットマン博士は車いすに乗った患者が自ら考えた球技を楽しむ姿を目の当たりにする。そのイキイキとした姿に、グットマン博士はリハビリテーションにおけるスポーツの重要性に気づく。スポーツは残された体の機能を向上させて回復を早めるだけではなく、自尊心を養い、社会とのつながりまで生み出す可能性があるのだ。この気づきが後に、自身で「最高の考えのひとつ」とまで語ったスポーツを取り入れたリハビリテーションの考案へとつながった。このグットマン博士のリハビリテーションは、多くの患者を短期間で社会復帰させ、余命も大きく延ばすことに成功する。
グットマン博士はこのような言葉を残したといわれる。
「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」
脊髄損傷科の開設から4年が経った1948年7月29日、グットマン博士は1948年ロンドンオリンピックの開幕日と同じ日に、病院内で『第1回ストーク・マンデビル競技大会』を開催。患者の間で人気があったアーチェリーが実施され、男性14名、女性2名の計16名が参加した。
「第1回ストーク・マンデビル競技大会」が開催されたストーク・マンデビルスタジアム。現在は「ルードヴィヒ・グットマン障がい者スポーツセンター」と名を変え、さまざまなスポーツ大会が行われている 【photo by X-1】
③「情熱と信念」:思い通りにするという強い意志を持って
グットマン博士は、ストーク・マンデビル競技大会がいずれ国際大会になり、オリンピックと同等の大会になる、と見通していたという。その展望どおり、1952年には、オランダからの参加者を迎え130名で開催。この大会以後、「ストーク・マンデビル競技大会」は「国際ストーク・マンデビル競技大会」に改称する。1956年にはグットマン博士の功績が国際オリンピック委員会から認められ、表彰されている。
60年代は、グットマン博士と障がい者のスポーツ、双方にとって転換期となった。
1960年、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスからなる国際ストーク・マンデビル大会委員会が設立され、グットマン博士が初代会長に就任。同年、「第9回国際ストーク・マンデビル大会」がオリンピックと同じローマで開催された。イギリス以外の地で初めて開催された大会で、この大会こそ、のちの「第1回パラリンピック」だ。
グットマン博士は、1961年に国際対まひ医学協会(現国際脊髄協会)と英国障がい者スポーツ協会(現Activity Alliance)を設立。1964年に東京で開かれた「第2回パラリンピック」の開催にも尽力し、開会式ではスピーチも行った。そして1966年には、当時のイギリスの女王エリザベス2世からナイトの称号を授与された。
グットマン博士は60年代後半にストーク・マンデビル病院を退職したが、それ以後も情熱が衰えることはなく、国内外の競技大会やイベントに協力。1969年のストーク・マンデビルスタジアム設立に貢献し、1970年代は英国対まひスポーツ協会(現英国車いすスポーツ財団)を立ち上げた。
ストーク・マンデビル病院近くの「National Paralympic Heritage Centre」には、1964年東京パラリンピック関連の展示も。日本人形は同大会の陸上競技で金メダルを獲得した車いすの女子選手に贈られたもの 【photo by X-1】
④「中村裕博士」:門下生が日本の“障がい者スポーツの父”に
中村博士は、グットマン博士と同様、強い信念の持ち主だった。グットマン博士のもとで学んだ中村博士は帰国後、さまざまな“日本初”を実現させている。1961年に大分で「身体障害者体育大会」を開催。1962年に日本から2選手を「第11回国際ストーク・マンデビル競技大会」に派遣。1964年の東京パラリンピックでは、日本選手団の団長を務めた。この年の「身体障害者体育大会」はグットマン博士も視察に訪れている。
その後、障がいのある人たちの就労を支援する社会福祉法人「太陽の家」を創立。さらに、1975年に始まった「フェスピック大会」(現在のアジアパラ競技大会)や1981年から続く「大分国際車いすマラソン大会」を実現するなど、その功績は計り知れない。
中村博士はグットマン博士が亡くなった4年後の1984年に他界。中村博士の遺志を引き継いだ息子の太郎氏は、日本選手団のチームドクターとして2000年シドニー大会と2004年アテネ大会の2回、パラリンピックに帯同した。グットマン博士のレガシーは、中村博士を通じ、日本のパラスポーツに今も脈々と受け継がれている。
大分県別府市の「太陽の家」敷地内にある中村裕氏の銅像。イギリスのストーク・マンデビル病院に留学し、グットマン博士の教えを受けた 【photo by X-1】
text by TEAM A
photo by X-1
※本記事はパラサポWEBに2024年2月に掲載されたものです。
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ