中村俊輔引退試合 HISTORY COLUMN #01「〝浸れる場所〟と言ったら三ツ沢しかない」を公開
【YOKOHAMA FC】
#01「〝浸れる場所〟と言ったら三ツ沢しかない」
ニッパツ三ツ沢球技場は、中村俊輔にとって「特別な場所」だ。
1964年の東京オリンピックでもサッカーの会場として使用された歴史ある球技専用のスタジアム。
小学生のころJSL(日本サッカーリーグ)日産自動車と読売クラブの黄金カードを初観戦した記憶は今も鮮明に残っている。
別にこの試合をお目当てにしていたわけではなく、地元のスタジアムに「父親に連れられて何となくふらっと立ち寄る感じ」だったそうだ。
「ホーム側のゴール裏自由席になっているところから観た景色は今も覚えている。あのころは電光掲示板がそこにあって、コンクリートの席に座って……。お互いの10番に自然と目が行った。それが読売のラモス瑠偉さんと木村和司さん。テクニックの読売と、組織力の日産という感じで、日産のホームだから和司さんがボールを持つと凄い歓声だった。小学校の中学年だったけど、もっと上の世界に行ってみたいと思えた自分の原点」
憧れ目線から、プレーヤーとして目指す場所へ。
深園FC時代に兄とともに横浜市の大会で優勝したときもここだった。
「小学生のころは練習も試合も基本的には土のグラウンド。でも大きな大会で決勝とかになると三ツ沢でやれたから、特別感があった。日本のトップの人たちがプレーする場所だし、何より天然芝で試合ができるのがたまらくうれしかった」
続く...
1964年の東京オリンピックでもサッカーの会場として使用された歴史ある球技専用のスタジアム。
小学生のころJSL(日本サッカーリーグ)日産自動車と読売クラブの黄金カードを初観戦した記憶は今も鮮明に残っている。
別にこの試合をお目当てにしていたわけではなく、地元のスタジアムに「父親に連れられて何となくふらっと立ち寄る感じ」だったそうだ。
「ホーム側のゴール裏自由席になっているところから観た景色は今も覚えている。あのころは電光掲示板がそこにあって、コンクリートの席に座って……。お互いの10番に自然と目が行った。それが読売のラモス瑠偉さんと木村和司さん。テクニックの読売と、組織力の日産という感じで、日産のホームだから和司さんがボールを持つと凄い歓声だった。小学校の中学年だったけど、もっと上の世界に行ってみたいと思えた自分の原点」
憧れ目線から、プレーヤーとして目指す場所へ。
深園FC時代に兄とともに横浜市の大会で優勝したときもここだった。
「小学生のころは練習も試合も基本的には土のグラウンド。でも大きな大会で決勝とかになると三ツ沢でやれたから、特別感があった。日本のトップの人たちがプレーする場所だし、何より天然芝で試合ができるのがたまらくうれしかった」
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