人気と実力・経験豊富な選手たちと、クラブスタッフが対等に渡り合うまで | ヴェルディと駆け抜けた30年【後編-1】

東京ヴェルディ
チーム・協会

竹中百合 強化部アドミニストラティブマネージャー 【©️TOKYO VERDY】

<後編>

 Jリーグが30周年を迎える今、クラブにもその歴史を見届けてきた人がいる。1993年に入社してから今日まで、東京ヴェルディと日テレ・ベレーザとともに歩んできたのが竹中百合だ。その一つひとつの出来事がクラブの財産であり、クラブの個性になっている。プロサッカークラブとはどうあるべきか、プロサッカー選手とはどう振る舞うべきか。それすら手探りだった時代に、ヴェルディは選手もフロントも高い意識を持ち、互いに戦ってきた。それがヴェルディの伝統であり、受け継がれる個性になっている。<前編から続く>

戦術のことはわざと理解しない真意

 取材が始まる前から、すでに核心めいたものはあった。だから、思わずICレコーダーにある赤い丸のボタンを押していた。
 それは川勝良一監督がチームを率いていた時代のエピソードだった。
 竹中百合は言った。

「ハーフタイムにロッカーアウトの時間になってもチームがなかなか出てこないことが続いて、マッチコミッショナーにすごく怒られたことがあったんです。その次の試合でも、ロッカーアウトの時間が来ているのに誰も出てこなくて、ドアの外で聞き耳を立てていたら、まだ監督やコーチが話している。でも、私は『時間です』と言って扉を開けて、ピッチに出るようにうながしたんです」

 5月15日で30周年を迎えるJリーグにおいて、開幕した1993年からヴェルディとともに歩んできた竹中は懐かしむ。

「その光景を見ていた他のスタッフが後日、同じように声を掛けたら、めちゃくちゃ監督やコーチから怒られたみたいなんですよ」

 竹中は、そう言って笑った。
 ただ、それは彼女だから許されたことでもなければ、他のスタッフだったからダメだったという安易な事象ではない。
 答えを聞けば、納得した。

「話の内容や話の切れ目を聞いていて、後半に向けて言うべきことは言い終わっているという確信があったから、私は話を途中で切ったんですよね。もし、監督の指示が最高潮に達していて、まだ選手たちに対して話さなければいけない状況だったとしたら、たとえ(後半の)キックオフが遅れて、また怒られることになっても、そこは我慢しようと腹を括っていました。チームが勝つためならば、それも仕方がないかなって」

 一方で、竹中はこうも話す。

「でも、私は戦術のことは、わざと理解しないようにしているんです。人間ってすべてが頭に入ってしまうと、誰かに言いたくなってしまう傾向があると思うので。自分がすべてを理解してしまった結果、メディアの人たちにポロッと話してしまう可能性があるかもしれないし、何より選手やスタッフに戦術どおりにできていたとか、できていなかったという話をしたくない。選手には、『調子よかったね』とか『元気なかったね』とは言うけど、あのプレーがどうとか、あのポジショニングはどうとかは絶対に言いたくないんです。だから、感覚的には理解していたとしても、(戦術については)学ばないって決めていました」

 ピッチ内は監督、選手たちの聖域である。
 フロントである自分たちは、その外を全力でサポートする。
 そこに、竹中がヴェルディで働きはじめたときから、今日まで培ってきたクラブの伝統と哲学がある。

入社当初、監督や選手と話してはいけないと言われた

「いいか、竹中。半年間は、監督、コーチ、選手たちと話をするな」

 Jリーグが開幕した1993年に、ヴェルディに入社した竹中が、最初に当時の上司から言われた指示だった。
 当然、疑問を抱いた竹中は、「なぜですか?」と理由を聞いた。
 すると、上司は言った。

「お前はまだ選手たちと議論したときに、説得することも、勝つこともできないだろう。社会人経験はすでにあるかもしれないが、クラブのことを把握しているわけではない。だから、クラブのことについても議論で勝てるようになるまで一切、話はするな」

 その言葉の意味と重みを、竹中はすぐに感じ取る。
 すべてのJリーグクラブがまだ、プロサッカークラブとはどうあるべきか、プロサッカー選手とはどうあるべきかが手探りだった1993年当時、すでにヴェルディはその意識を明確に抱いていた。
 それは選手も、フロントも——毎日、戦っていたのである。

 Jリーグ初代王者に輝いた当時のヴェルディの選手たちは、誰しもがプロとして必要な強烈な個性を備えていた。ラモス瑠偉、柱谷哲二、都並敏史、三浦知良、武田修宏、北澤豪……プレーもキャラクターも思い描ける選手の名前を挙げれば、枚挙にいとまがない。

 プレーでも魅せ、キャラクターも際立っている彼らは、メディアにも引っ張り凧だった。クラブには連日、さばききれないほどの取材申請が届いていた。携帯電話もなければ、メールもなかった当時、通信手段はもっぱらFAXで、用紙が切れるようなことがあれば一大事だった。そのため、ヴェルディではFAXを整理する役割と、届いた取材申請を選手別に一覧にまとめるためのアルバイトがいたくらいだった。

「広報が取材の対応をしきれないので、いわゆるスター選手と言われる人たちは、全員が事務所に入っていました。1日でだいたい20件くらいは届いていましたね。それをクラブである程度、吟味して、引き受ける取材についてはそれぞれの所属事務所に送って調整してもらっていました」

 選手たちは実力と人気を兼ね備え、また経験も豊富だった。その選手たちとフロントは、対等に渡り合わなければならなかった。

「だから、常にフロントも選手たちとギリギリの戦いをしていたんです。選手たちがプロになり、トップレベルで戦っている以上は、フロントもプロでありトップレベルでなければならない」

 入社したばかりの人間が、監督、コーチ、選手たちと話をしてはいけないと言われた理由の答えだった。

「仮に選手と話をして、できないことを安請け合いするようなことはあってはならないと言われました。こちらが伝えたことを、そのまま伝えるのは構わないが、自分で判断するようなことは、絶対に回答しないでほしいと言われたんです」

<6月19日公開予定 後編-2へ続く>
文・原田大輔/写真・近藤篤
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著者プロフィール

東京ヴェルディは、日本初のプロサッカーチームを目指して設立された1969年の当初から、青少年の育成とスポーツ文化の振興と確立を目的に活動を行っています。1993年の開幕時からJリーグに参戦して初代チャンピオンに輝き、連覇も達成するなど数多くのタイトルを獲得しています。女子チームの日テレ・東京ヴェルディベレーザは設立当初から日本の女子サッカー界を牽引する存在で、多くのタイトルを獲得してきました。日本女子代表にも数多くの選手を送り出しています。男女ともに一貫した育成システムを誇り、世界に通じる選手の育成を続けています。

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