入社初日にクラブハウス入館を拒否!?一世を風靡したヴェルディの初年度 | ヴェルディと駆け抜けた30年【前編-1】
竹中百合 強化部アドミニストラティブマネージャー 【©️TOKYO VERDY】
<前編>
入社初日に施設に入ることを拒まれた理由
「私、今日からここで働くことになっているんです」
竹中百合がそう主張しても、受付の担当者はいぶかしげな表情を浮かべていた。
「何も聞いてないので、中に入ることはできません。それに、よくいるんですよね。関係者だと偽って中に入ろうとする人が……。きっと、あなたもそうなんでしょう?」
入社初日に出鼻を挫かれ、いきなり心が折れそうになった。仕方なくクラブハウスの外にあるベンチに座って、顔見知りの社員が来るのを待った。
時間が経ち、ようやく見知った先輩社員が出社すると、ベンチにポツンと座って意気消沈している竹中を見つけて言った。
「お前、今日からか! 待ってたぞ。それより、何でこんなところにいるんだ?」
まるで、つい最近の出来事のように竹中は回想する。それだけ強烈な印象が残っているのだろう。
「Jリーグが開幕した当初は、練習場の周りが常にファン・サポーターの人たちでものすごいことになっていました。クラブハウスから道路に出ても、そこにも人が並んでいましたから。しかも女性ばかり。誰かが出ていくと、みんなカメラを向けて、パシャパシャってシャッターを切るんです。当時はもちろんスマートフォンもなかったので、お目当てではない私たちスタッフも、写真に写ってしまっているんだろうなと思うと、ホントに申し訳なかったですね」
1993年のNICOSシリーズで優勝し、サントリーチャンピオンシップで鹿島アントラーズを破って、Jリーグ初代王者に輝くことになるヴェルディは、スタメンの全員が日本代表といっても過言ではないほどの強さを誇っていた。開幕とともにJリーグの人気に火がつき、一世を風靡するブームになってからは、選手を追いかけるファンも一気に増えた。
特に三浦知良、武田修宏、北澤豪らは女性から熱視線を浴び、スタジアムだけでなく、連日のようにクラブハウスも黄色い歓声に包まれていた。
「あの手この手、手を替え品を替え、選手に近づこうとする人も多かったみたいで。女性だった私も、その一人だと思われたみたいです」
当時のサイン会対応の様子 【©️TOKYO VERDY】
家族以外にはヴェルディへの入社を口外できなかった
Jリーグ開幕当初の人気と煩忙は、竹中が入社する前のエピソードからも見えてくる。
「読売新聞の事業局からもヴェルディに派遣されていた人たちがいて、彼らから私宛によく電話があって、物を送ってほしいというお願いをされていたんです。それで私がヴェルディの人と電話で話していると、いつも事業局の人たちが耳をダンボのように傾けて聞いていたんですよね」
事業局の人たちは、電話をしている竹中に身振り手振りでサインを送る。
「その電話、ヴェルディからか?」
無言で頷くと、決まってこう言われた。
「絶対にその電話を切るなよ。要件が終わったら、必ずこっちに回してくれ」
竹中が受けた電話は、その後、次々と各担当者が電話を代わり、1時間近くつながったままだったという。
「当時は、それくらいヴェルディと電話がつながらなかったんです。携帯電話もなければ、メールもない時代だったので、会社の代表番号に電話を掛けるしか連絡の取りようがなかった。でも、ヴェルディは回線数が少なくて、いつ電話を掛けても話中で。こちらからコンタクトを取る方法がなかったので、ヴェルディから連絡が来るのをひたすら待つしかない。それくらいヴェルディの人たちと話せる機会は貴重でした。きっと、私たちが話している間も、他の誰かが電話がつながらないと言って困っていたと思います」
そのため読売新聞の事業局では、「ヴェルディから電話が来たら、用事がある人がいないか必ず確認する」というルールがあったというくらいだから、相当だったのだろう。おそらく、ヴェルディのクラブハウスでは、電話を切っては鳴り、また切っては鳴りが繰り返されていたはずだ。
「Jリーグが開幕した初戦の注目度は高かったですが、私の記憶だと、そこから数試合は、まだそこまでチケットが取りにくい状況ではなかったように思うんですよね。でも、開幕戦の模様がテレビで放送され、話題になったことで、夏くらいからはチケットが全く取れないような状況になりました。実際に私が入社したのは1993年の終盤で、営業部のチケット担当に配属されたので、『手元にこんなにチケットがあるのになぁ』と思いながら、過ごしていた記憶があります」
開幕戦を経て、プレミアムチケットとなったJリーグの観戦チケットは、ヴェルディの所属選手ですら規定の枚数しか買うことができず、選手間でも争奪戦になっていた。それもあって、竹中がヴェルディに入社したとき、親以外には勤務先を伏せ、親にも口外しないように口止めしていた。
「ヴェルディで働いているなんてことが知られたら、絶対にチケットを融通してほしいと言われていたと思うので、しばらくは周りにも言えなかったですね」
そう言って、竹中は懐かしそうに笑った。
見て学び成長するサッカー選手に通じる働き方
「大部屋の壁一面が、チケットの入ったダンボールで埋め尽くされるくらいになるのですが、それを一つひとつ開封して、試合ごとの山を作って、手作業でプレイガイドごとに数えて配っていました」
座席図とペンを持ったスタッフが「次はこのプレイガイドです」と言う。竹中をはじめとするスタッフは、指定された座席の番号を確認しながら、チケットを数えていった。部屋にこもって永遠と、黙々と続けるその作業が終わるころには指紋がなくなっていた。
30年前は、女性が企業の第一線で働くこともまだまだ珍しかった。ましてや男性である選手がプレーするサッカークラブとなれば、そうした認識も色濃かった。
「確かに社会的にも、まだ女性を仕事の戦力として見る認識は薄かったように思います。そこに毛色の違う私が入社したので、それ以前から働いていた女性スタッフからは遠巻きに見られていたように思います」
当時、女性を戦力として見ないという認識は、何も男性だけが持っていた偏見ではなかった。それは竹中が言った言葉からも受け取ることができる。なぜなら、女性社員たち自身もまた、そう考えている人が圧倒的多数だったからだ。
竹中が言う。
「女性が残業するなんて、という考えを持っている方も多かったですね。だから、私が男性と一緒になって走り回り、仕事をしている姿は異質に映ったかもしれません」
竹中自身にそうした当時の女性たちが抱いていた思考はなく、周囲も竹中に同じことを期待してはいなかった。本人は否定するかもしれないが、まさに先駆者だった。
同時に、ヴェルディに読売新聞の事業局時代の働き方を知っている人がいたことも大きかったのだろう。
読売新聞の事業局では当時、社員は定期的に部署異動をするため、長く働いているアルバイトが、新人や部署異動になった社員に、仕事を教えることが多くあった。そのため、アルバイトの女性であっても、社員の男性は彼女たちの存在を戦力として考え、かつ、しっかりとリスペクトしてくれていた。
「その働きを評価されてヴェルディにも入社したので、とにかく周りは関係なく、一生懸命できる仕事をやろうと思って、毎日を過ごしていました。Jリーグバブルで仕事はあふれるほどあるのに、フロントの人数は少なくて。当然、開幕したばかりでマニュアルがあるわけでもなく、上司や先輩たちがやっていることを観察して、次に必要そうなものを準備したり、一度聞いたことを二度は聞かないようにと、必死にメモをとったりして。上司には“一を聞いて十を知る仕事をしろ!”ってよく言われていました(笑)」
ただ教わるのを待つ、もしくは与えられるのを待つのではなく、自らつかんでいく。それはプロサッカー選手がグラウンドで先輩の技術を見て学び、そして成長してポジションをつかんでいく——それとイコールだと言えるだろう。
<6月5日公開予定 前編-2へ続く>
文・原田大輔/写真・近藤篤
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