クラブ創設の原点は「町おこし」。「99.9999%、不可能」の前にあったストーリーとは。アントラーズと地域の関係。【未来へのキセキ-EPISODE 23】

鹿島アントラーズ
チーム・協会

【©KASHIMA ANTLERS】

 試合開催日、カシマサッカースタジアムのコンコースでは、お祭りのような光景が恒例となっている。

 焼きハマグリの販売、ピーマン丸焼き、お米の炊き出し、産地直送野菜の無料配布、かつてはマグロの解体ショーを実施したこともあった。スタジアム内の飲食売店とは別に、試合ごとで特別なイベントが開催されている。

 そのイベントを主体となって開催するのは、アントラーズのホームタウン・フレンドリータウン各自治体だ。新型コロナウイルス感染症拡大により、現在はイベントが自粛されているが、年に一度、ホームゲーム当日に各市町村の「ホームタウンデイズ」「フレンドリータウンデイズ」と題して、来場したサポーターに喜んでもらうためのイベントが設けられてきた。

 PRイベントや特産品の販売など、さまざまなイベントを実施したり、当該する自治体の在住・在勤・在学者へ無料招待や、観戦チケットを優待価格で販売したりする。どの〝市町村の日〟も、ホームゲームのキックオフを前にカシマサッカースタジアムの賑わいを与える。

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 これだけ各自治体と連携して〝お祭り〟を創出できるのも、アントラーズならでは。その理由は、これまでのクラブ創設の成り立ちに由来する。

 「町おこし」。アントラーズ誕生の歴史を振り返ると、プロサッカークラブを設けることによって、「この町を変えよう」という原点があった。行政とともにタッグを組んで、地域のシンボルを作る。そして、地域とともに歩み、成長していく。そうした互いの「win-win」の関係を目指して生まれたのがアントラーズだった。

 「99.9999%、不可能」。当時、プロリーグ検討委員会委員長として参入クラブを選定していた川淵三郎の言葉だ。アントラーズが生まれた経緯として、象徴的に使われる表現でもある。「0.0001%の可能性がある」。そう捉えた多くのアントラーズ関係者は、夢と情熱を抱き、実現の条件として提示された屋根付きのサッカー専用スタジアム建設を官民一体となって実現した。そうして生まれたのがカシマサッカースタジアムだった。

 実は、そんなエピソードの前段にも、ストーリーがあった。

 アントラーズのホームタウンは、鹿嶋市、潮来市、神栖市、行方市、鉾田市の鹿行5市からなる。この地域は、もともと昔ながらの農村や漁村が混在する地域だった。しかし1960年代、国による重化学工業化政策に乗っかり、茨城県主導で開発コンビナート「鹿島臨海工業地帯」が開発された。町に多くの雇用が生まれ発展が進んだかに思えた。しかし、人の住環境としては、娯楽がない潤いに欠ける街、当時の鹿島町(現・鹿嶋市)に転勤となれば家族に反対されるようなイメージに悩まされることになった。

 そんななか、1993年に日本初のプロサッカーリーグとなる、Jリーグ誕生が決まった。そこで鹿島町を中心にクラブを作り、地域とともに発展していこうというムーブメントが生まれた。「クラブと町が一体となって取り組んでいく」。こうしてアントラーズは生まれた。そもそもが地域の活性化を目指して創設されたクラブだったのだ。

【©KASHIMA ANTLERS】

 地域とともにある、地域の象徴となるべき存在を目指してー。クラブ創設後、ホームタウンが原点と再認識する出来事があった。それは、避けられない状況でもあった。苦い記憶としてクラブの歴史として残っていることがある。

 2001年、アントラーズがホームにしていたカシマサッカースタジアムは、2002年W杯の開催会場決定にともない、2万人収容から4万人収容へ増改築されることに。その工事期間中も、トップチームの公式戦は開催される。ホームとして使用した代替会場は国立競技場だった。1999年から2001年は仕方なくホームゲームを国立競技場とカシマサッカースタジアムを併用した。東京・国立競技場での試合のたびに、鹿嶋から移動してホームゲームとして試合を開催した。ホームタウンを担当する地域連携チームマネージャーの吉田誠一は言う。

「2002年、増改築中に国立競技場で開催した経緯がクラブとしてありました。一時的な措置であり、仕方ない状況ではありましたが、ホームタウンを離れた。それによってその後に戻ったとき、明らかに観客動員が減少しました。そのときのアントラーズ離れは、しばらく数年にわたって影響しました。そこからです。クラブとしても、いかにファン・サポーターを呼び戻すか。その苦い思いや経験が、当時を経験したクラブ幹部の頭には常にあります」

 そこからクラブとして大きな見直しを図った。ホームタウン5市からなる「ホームタウン協議会」の発足、選手自ら出向いて子どもたちとふれあう小学校訪問のスタートなど、〝アントラーズが日常にあること〟を目指して、改めて地域への活動に重点を置いた。

「ホームタウンや地域との共存がなければ、クラブは存続できない。Jリーグ創設当時からクラブ経営をしている方はわかっていることだと思います。それは今や常識ともいえることです。アントラーズにおいてももちろん、クラブの歴史を踏まえれば、ホームタウンの重要性をメインと考える証左になっていると言えるのではないかと思います」

【©KASHIMA ANTLERS】

 これまでJリーグは、ホームタウン外でのマーケティング活動において制限を設けてきた。Jリーグがスタートしておよそ30年を経た今、その緩和に向けた議論が進んでいる。アントラーズはどう向き合い、具体的に何を取り組んでいくのか。

「さまざまな社会情勢もあり、今はどのクラブも収入増や経営基盤の強化のため、日々試行錯誤しています。アントラーズとしては、100億円クラブを目指しているなか、それを実現するためにはどう事業規模を広げていくのか。そのためには、マーケットを拡大していかないと立ち行かないという考えがあります。それは、ホームタウンをないがしろにするわけではありません。これまで同様に地域とともにホームタウンを盛り上げながら、収益外だったアウェイゲーム開催日をいかに収益へとつなげていくのか。これまでになかった、新たな飛躍のきっかけにチャレンジすることに取り組んでいます」

 ホームタウンの基盤は前提としながらも、これまでになかった土壌を広げていきたい。よりクラブの幅を大きくすることによって、これまで同様に勝ち続けていくために。

 具体的には、アウェイ試合の際にホームタウン外でパブリックビューイングの実施を検討している。クラブとして、ホームゲーム以外でもアウェイで稼ぐシステムを作り、パートナーのメリットにもつながるような形を考え続ける日々だ。

 小泉文明社長は未来のクラブと地域との関係について表明している。

「これからもホームタウンとともに歩んでいきます。その前提をもとに話をすると、時代の変化とともに30年前と変わってきた部分があるのも事実です。ベースは変えることなく、時代に即したアップデートをしていく。それによって、アントラーズのみならず、日本サッカー界全体がこれまで以上に盛り上がる形を作っていけるのではないかと考えています」

 この地域に根を張って、より幹を太くしていく。そこは変えない。理念は変えないが、実情に合わせたルールの緩和によって、より大きく太い地域との関係を築いていくつもりだ。今のホームタウンを見つめる吉田は、未来へのイメージをこう描いている。

「〝町おこし〟という言葉ひとつを捉えると、経済活性化の印象を持たれてしまうかもしれません。しかし、そこは本質ではありません。町の景色を変える、人々の生活を変える、日常に潤いをもたらす。そのために作られたのが、アントラーズです。人の心を豊かにするために、いかにクラブが地域の象徴としてあり続けられるか、それによって地域が潤っていくのか。そこが重要ではないかと考えています」

 時代の流れが速まり、変化が求められる時代になった。そのなかでも、これまで培った不変とすべきものの見極めをしながら、アントラーズは突き進んでいくつもりだ。時代に合わせた変化をしながら、原点は変わらずに。

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著者プロフィール

1991年10月、地元5自治体43企業の出資を経て、茨城県鹿島町(現鹿嶋市)に鹿島アントラーズFCが誕生。鹿角を意味する「アントラーズ」というクラブ名は、地域を代表する鹿島神宮の神鹿にちなみ、茨城県の“いばら”をイメージしている。本拠地は茨城県立カシマサッカースタジアム。2000年に国内主要タイトル3冠、2007~2009年にJ1リーグ史上初の3連覇、2018年にAFCアジアチャンピオンズリーグ初優勝を果たすなど、これまでにJリーグクラブ最多となる主要タイトル20冠を獲得している。

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