【新日本プロレス】”元UFC戦士”トム・ローラーは、なぜ新日本で闘っているのか?

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【新日本プロレスリング株式会社/トム・ローラー選手】

アメリカの配信限定番組『NJPW STRONG』で話題沸騰! 猛威を奮う“TEAM FILTHY”のリーダーで、“元UFCファイター”で、“日本のプロレス・格闘技のマニア”!? トム・ローラーはなぜ新日本プロレスで闘っているのか? スペシャルインタビュー前編をお届け!

トップ写真提供/トム・ローラー選手

※以下、インタビューの「前半部分」をSportsNaviで無料公開! 
 

【新日本プロレスリング株式会社】

結局のところ、どっちも格闘スポーツ。少し違うくらいで、俺にとってはプロレスをやるのも総合格闘技をやるのも同じことさ。

【新日本プロレスリング株式会社】

――さて、ローラー選手。最近、『NJPW STRONG』で起きていることについて、それとローラー選手の総合格闘技からプロレスに至るまでの道のりについて話したいと思います。

ローラー ああ、オーケーだ。

――ただ、どうやら実際のところ、ローラー選手は総合格闘技ではなく、プロレスからキャリアが始まっているようですね。

ローラー ククク。それは知らないな。

――あ、そこはご記憶にないですか。

ローラー とにかく俺が、初めて闘ったのは2003年のことだ。当時は、格闘技の団体そのものが本当に少なかった。UFCはもうあったが、今みたいにUFCに所属したところで、たくさんカネが稼げるわけでも立派なキャリアを積めるわけでもなかった。でも、当時はUFCをよく観てて、「クールだな」と思っていたし、「これこそ、俺のしたい仕事だ」ということもよくわかっていた。
 
――最初に好きになったのは、総合格闘技だったんですね。
 
ローラー その通り。ただ、最初の試合では、たった50ドルしか稼げなかった。その後は…… さっきも言ったように、当時はそれほどカネを稼げるジャンルじゃなかったからな。そんなにキャリアも積めなかった。当時は、まだ20歳の若造だったしな。
 
――つまり初期は、プロレスをやることが、総合格闘技のキャリアを助けたということですか?
 
ローラー そうだ。2005年辺りにトレーニングをして、2005〜2007年の間にプロレスにもトライしていたんだ。ただ、その頃には、並行して徐々にフルタイムで総合格闘技も出来るようになっていた。まあ、結局のところ、どっちも格闘スポーツだ。少し違うくらいで、俺にとってはプロレスをやるのも総合格闘技をやるのも同じことさ。

どうしたって、あのグレート・ムタに魅了されないはずはないよな!

【新日本プロレスリング株式会社】

――子供の頃は、どんなプロレスを観ていましたか?
 
ローラー 最初に観たのは、アメリカのESPNで放送されていたGWF(グローバル・レスリング・フェデレーション)やUSWA(United States Wrestling Association)だ。同時期に、WWFも観ていたな。それに、土曜日夜のWCWも観てたし。当時の環境で観られるものはすべてのプロレスを観ていたよ。
 
――最初に日本のプロレスに触れたのは、いつでしょうか?
 
ローラー WCWにニュージャパンの所属レスラーが来た時だな。それと、WCWとニュージャパンが大会を共同開催した時だ。
 
――当時、ローラー選手にとって一番魅力的だったレスラーは誰ですか?
 
ローラー どうしたって、あのグレート・ムタに魅了されないはずはないよな! 彼は、本当に大きなインパクトを残してくれたよ。それから、ケンスケ・ササキ(佐々木健介)! とくに、スタイナーブラザーズ(リック・スタイナー&スコット・スタイナーの兄弟タッグ)を相手に闘っている姿が、すごくイカしていたんだ。けど、当時の俺はすごく若くて“闘い”ってものをあまり理解していなかった。ちゃんと理解するようになるのは、もっとずっと後のことだ。それで1990年後半に、日本の格闘技に改めて惚れ直した。ただし、多くの人が認めるような方法ではないけどな!

――どういう意味でしょう?

ローラー 信じようが信じまい構わないが、インセイン・クラウン・ポッシーの『Stranglemania』というビデオを観て、日本のプロレス・格闘技に夢中になったんだ。

――ああ、それは1990年代になってヒットした海賊版ビデオですね。ヒップホップアーティストであったインセイン・クラウン・ポッシーは大のプロレスファンで、1995年8月20日、IWAの川崎球場大会の実況をしている動画をリリースしました。その影響もあって、90年代後半、テリー・ファンクやミック・フォーリーがハードコアマッチで成功を収めていって。
 
ローラー そうだ。俺がしてきたこととはまったく違う方向性だったが、そのビデオから、テレビでは放送されてなかった日本のプロレスや格闘技の世界に興味を持ったんだ。そこから、リングスやPRIDEのビデオを観るようになった。

――なるほど。やはり、桜庭和志選手からは影響されましたか。

ローラー ああ。最初に観たPRIDEのビデオは『PRIDE 8』(1999年11月21日、有明コロシアム大会)で、サクラバvsホイラー(・グレイシー)の試合だった。だから、日本の総合格闘技に関してもわりと早く適応していった。
 
――すべての始まりは、最初に選んだ輸入ビデオテープにあったと。ローラー選手世代のレスラーの多くは1994年の『SUPER J-CUP』に影響された人が多いですが、ローラー選手は、IWAを起点に、PRIDE、リングスを通して、この世界に興味を持ったんですね。

ローラー フフフ。ガキの頃は、カネを払う価値があるものにだけ興味があった。俺の持っていたビデオテープは30試合も入っている4〜5時間の大会で、当時、そういうテープは本当にレアなものだったな。いまでも、ネットでそういう試合を観ることはできる。その時代と今ではテクニックは変わったが、当時の試合の“ハート”と“バイオレンス”は、間違いなく真実が込められていると思うよ。

――日本の総合格闘技の初期は、PRIDEやパンクラスに多くのファイターが参戦していて、もともとプロレスラーの選手も多かった。鈴木みのる選手や桜庭選手はその代表格ですが、海外で言えば、ポール・レイゼンビー(パンクラスで活躍後、プロレスラーに)やケン・シャムロック(パンクラスで活躍後にUFCやPRIDEに参戦。プロレスではWWE、TNAにも参戦した)のようなアメリカ人ファイターやカナダ人ファイターもその1人です。

ローラー 初めてサクラバを観たのは『UFC JAPAN』(1997年12月21日、横浜アリーナで開催された。初のUFC日本大会)だ。俺は、いちプロレスファンとして、プロレスラーが総合格闘技でシッカリ適応している試合を観たいと常々思っていたんだ。ハードなトレーニングや、的確なテクニックやホールドがプロレスをよりリアルな格闘スポーツにしていると思うからね。

――“キング・オブ・スポーツ”な考え方ですね。

ローラー まさにそうだ。ハルク・ホーガンの影響でコミックっぽくなった1990年代のアメリカでは、そういう考え方はされてなかったけどな。サクラバがプロレスから総合格闘技に来たと聞いた時は、すぐ彼のファンになったよ。あのUFC JAPANで、サクラバがマーカス・コナンとの試合がいったん無効試合になって、再試合でシウヴェイラを倒した時は、「これぞプロレスラーの生き様だ!」と思ったよ。ボコボコにされ、立ち上がり、戻ってきて、勝つ。一発で、サクラバに夢中になった。

――そういう意味では、ローラー選手は最初から総合格闘技での活躍を通して、プロレスを表現したかったタイプなんですね。

ローラー もちろん。たとえば、ジョシュ・バーネット(元UFC世界ヘビー級王者。UFC、パンクラス、PRIDEなど総合格闘技の一線で闘いながら、新日本プロレスにも参戦していた)のようにな? 彼は今日でさえ、彼はどれほどプロレスが武術としてリアルなものなのかを皆に伝えようとしているんだ。

――2000年代初めに総合格闘技とプロレス両方のキャリアを始めた時、新日本ではプロレスと総合格闘技の線引きが曖昧になっていました。2003年5月2日に行われた『ULTIMATE CRUSH』東京ドーム大会では、プロレスの試合と総合格闘技の試合が同時に行われました。
 
ローラー ああ、このインタビューで、絶対に『ULTIMATE CRUSH』について話してやろうと思っていたんだ!
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著者プロフィール

1972年3月6日に創業者のアントニオ猪木が旗揚げ。「キング・オブ・スポーツ」を旗頭にストロングスタイルを掲げ、1980年代-1990年代と一大ブームを巻き起こして、数多くの名選手を輩出した。2010年代以降は、棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカらの台頭で再び隆盛を迎えて、現在は日本だけでなく海外からも多くのファンの支持を集めている。

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