【新日本プロレス】『“ボクと新日本プロレス”ヒストリー』YOSHI-HASHI編

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【新日本プロレスリング株式会社/YOSHI-HASHI選手】

“リレー形式”の連載がスタート! レスラーや関係者に、ファン時代〜仕事として関わり始めた時代、自分が関わったベストバウトなどを直撃する集中連載! 

今回は後藤洋央紀選手からバトンを受けたYOSHI-HASHI選手がプロレスラーを志して、上京するまでの紆余曲折をたっぷりお届け!

※プロフィール写真提供/YOSHI-HASHI選手

※以下、YOSHI-HASHI選手インタビュー(前編)の序盤をSportsnaviで無料公開!

最初は小学校1年のとき。ボクは書道教室に通っていて、帰ってきて夕方テレビをつけると『ワールドプロレスリング』がやってたんです。

※小学校の入学式より。写真はYOSHI-HASHI選手提供。 【新日本プロレスリング株式会社/YOSHI-HASHI選手】

――さて、YOSHI-HASHI選手。今回は後藤洋央紀選手からバトンが回ってきた『ボクと新日本プロレスヒストリー』というインタビュー連載なんですが。

YOSHI はい。聞いてます。よろしくお願いします!

――後藤選手によると、「YOSHI-HASHIは入門まで紆余曲折あったと聞いている」「昔の写真がめちゃくちゃおもしろい」ということですが、まず新日本プロレスとの出会いを教えてもらえますか?

YOSHI そうですね。最初は小学校1年のときなんで、1991年あたりですね。当時、地元の愛知で土曜の夕方16時からやってた『ワールドプロレスリング』を観るようになって。

――わりと小さい頃からなんですね。

YOSHI はい。あと、矢野(通)さんに「オマエ、そんな字が汚ねえのにウソだろ?」ってよく言われるんですけど、小さいころボクは書道教室に通っていて、帰ってきて夕方テレビをつけると『ワールドプロレスリング』がやってたんです。

――幼心にプロレスラーの姿はどう映ってましたか?

YOSHI インパクトがありましたねえ。その頃は長州(力)さんや(獣神サンダー・)ライガーさん、あとは栗栖正信さんが印象に残ってます。栗栖さんのイス攻撃が凄くて。

――栗栖さんが“イス大王”と呼ばれてた頃ですね。

YOSHI ライガーさんはコスチューム姿がカッコよくて。その中でもボクが一番好きだったレスラーは長州さんでしたね。

――その頃、周囲でプロレスファンはいましたか?

YOSHI いや、誰もいなかったと思います。とくにボクもプロレスの話はしなかったですし。愛知県という土地柄から中日ドラゴンズを応援していて、友だちはプロ野球好きが多かったですね。

――では、その後は一人でプロレスを楽しんでた感じですか?

YOSHI いや、そのうち夕方に『ワールドプロレスリング』が放送しなくなっちゃったんですよ。まあ、小学生で新聞も読まなかったんで、放送時間が深夜に変わったのに気づかなかったっていうだけなんですけど(苦笑)。

――情報が入ってこなかったんですね(苦笑)。

YOSHI そもそも小学校低学年だと深夜まで起きてられないし、録画するにしろ当時は家にビデオデッキもなかったんで。そこから一時期、プロレスを観なくなっちゃって。

――そこで一旦距離ができた、と。そのあとプロレスと再会した時期は?

YOSHI 中学生になって、ゴールデンタイムでUWFインターナショナルとの対抗戦をやったんですよ。メインが武藤(敬司)さんと高田(延彦)さんで。

【新日本プロレスリング株式会社】

――1996年の1.4東京ドームですね。前年の10.9東京ドームの新日本vsUインターが話題となり、その次のドームがゴールデンで放送されることになって。

YOSHI それで「プロレス、TVでやってるんだ!」って興奮しながら観てたら、番組の最後に「深夜に放送」っていうテロップが流れて、「エッ、夜中にやってんの?」って知った感じですね(笑)。

――そこでやっと気づいたと(笑)。

YOSHI それから親に何回も頼んで、ビデオデッキを買ってもらったんですよ。『ワールドプロレスリング』を録画したくて。

――ひさびさに観て、知らないレスラーも増えていたのでは?

YOSHI そうですね。というか、最初に観てた頃は武藤さんとか名前がわからなかったんですよ。“オレンジ色のパンツを履いてる人”みたいな感じで、コスチュームとか特徴で覚えてましたね。蝶野(正洋)さんだったら、“息遣いが独特な人”とか(笑)。

――なるほど(笑)。中学の頃になると、周りでもプロレスを観ている友だちはいましたか?

YOSHI 当時、『ワールドプロレスリング』の直前に、『リングの魂』(南原清隆がMCのプロレス・格闘技をテーマにしたバラエティ番組)がやってたんですよね。それを録画したものを友だちに見せたらハマってくれて。中学になってから、プロレスについて話す友だちが増えた感じです。

――では、プロレスごっこも?

YOSHI やってましたね! 学校でもやったし、家でも布団を重ねて(笑)。当時はDDTをよく使ってました、まだ力がなくて相手を持ち上げられないんで。あとは足4の字とか。

――後藤(洋央紀)選手はスティーブ・ウィリアムスの影響で、プロレスごっこで殺人バックドロップとかやってたらしいですけど(苦笑)。

YOSHI 殺人バックドロップですか!?(苦笑)。そこまではやらなかったですけど、体育館の倉庫でマット目掛けて飛び技とかはやってましたね。それで先生にバレて、スゲー怒られたりもしましたけど。

電話帳というか104(番号案内サービス)ってあるじゃないですか? アレに電話してレスリングを学べるところを調べて……。

※『山田スポーツクラブ』時代。左はリングスにも上がったことのある倉橋達也さん(YOSHI-HASHI選手提供)。 【新日本プロレスリング株式会社/YOSHI-HASHI選手】

――プロレスに夢中になっていく中で、すぐに将来はプロレスラーになりたいと?

YOSHI いや、当時は想像もできなかったです。とにかく、中学の頃はプロレスを観るのが楽しみで。録画したものを次の週の放送が始まる前に、何度も繰り返して観てましたね。

――プロレス専門誌も読んでましたか?

YOSHI 最初、『週刊プロレス』を読んでたんですけど、『週刊ゴング』のほうが、写真が綺麗だったんですよね。いまは『週プロ』もキレイなんですけど、当時はちょっと荒かったというか……。

――紙質が『ゴング』の方がよかったと。

YOSHI ええ。当時は『ゴング』のほうが20〜40円くらい高かったんですけど、写真がキレイだからソッチを買うようになって。いまでも実家には『ゴング』が大量にあるんじゃないですかね。

――ちなみに学生時代のYOSHI-HASHI選手は、勉強をまったくやらなかったんだとか?

YOSHI まったくでしたねえ……。当時は「こんなことやって、何の意味があるんだろ?」ってずっと思ってて(笑)。で、中3くらいになるとさすがに進路を考えるじゃないですか? その頃になるとプロレスに対して、“好き”というよりも“憧れ”が強くなってきて。

――夢として具体的になってきたわけですね。

YOSHI それで中学卒業したら、格闘技の道場か何かに通おうと思って。母親からは「とにかく高校だけは出なさい」って言われたんですけど、通える範囲でレスリング部のある学校がなかったんで、それで高等専門学校に進学しました。

――これも少し意外でしたけど、“調理”の高専だったみたいですね。

YOSHI ハイ。どうせ卒業するなら調理の資格が獲れた方がいいなって。料理を作るのも嫌いじゃなかったですし。まあ、勉強してないボクが受かるくらいの高校なんで、「ジムとか道場に通いながらでも、卒業できるな」って思いましたね(笑)。

――で、そのあとに道場を探した、と?

YOSHI そうです。あの頃はまだネットも使ってなかったので、電話帳というか104(番号案内サービス)ってあるじゃないですか? アレに電話してレスリングを学べるところを調べて……。
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著者プロフィール

1972年3月6日に創業者のアントニオ猪木が旗揚げ。「キング・オブ・スポーツ」を旗頭にストロングスタイルを掲げ、1980年代-1990年代と一大ブームを巻き起こして、数多くの名選手を輩出した。2010年代以降は、棚橋弘至、中邑真輔、オカダ・カズチカらの台頭で再び隆盛を迎えて、現在は日本だけでなく海外からも多くのファンの支持を集めている。

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