広島のスカウトが明かす菊池ら獲得の裏側 松本スカウト「自前で選手を鍛えて育てるという意識は他球団よりも強い」
衝撃的を受けた、中京学院大1年菊池のプレー
2012年の新人合同自主トレでの菊池。プロ1年目から1軍に出場し、カープの顔として長く活躍を続けている 【写真は共同】
一応、崇徳高校時代から県内ではそれなりに打っていたので、スカウトには注目されていたと思います。ただ高校の監督から亜細亜大を勧められて、そのまま大学に進学しましたので、プロを意識し始めたのは大学からですね。
——担当スカウトの印象はどうでしたか?
カープの担当は苑田(聡彦/現・スカウト顧問、2025年2月に退任予定)さんでしたけど、指名されるまでは全く話したことはなかったです。巨人の担当だった松本匡史さんも来られていて、松本さんは“青い稲妻”と言われていた現役時代もよく知っていたのですが、苑田さんはどの球団の方かも分からなかったです。そんな感じでしたので、どの球団から指名がありそうかというのも全く分かりませんでした。
4年の春はかなり打ったのですが、大学ジャパンにも選ばれませんでしたし、社会人からも内定をいただいていたので、指名がなければ社会人に進む予定でした。広島に指名された後もどんな話をされたとかは正直あまり覚えていません(笑)。
——現役引退されてすぐにスカウトになられましたが、その時は球団からどんな話をされましたか?
球団に呼ばれて「来年の戦力としては考えていない。来年からスカウトをやってほしい」ということを言われました。3日の間に返事をしてくれという話だったので、苑田さんに連絡したら「わしが球団にお願いしたから、スカウトをやれ」と言われてすぐに返事をしました。もう膝も悪くて、他球団で現役ということも考えていませんでしたから、ありがたいお話だなと思いましたね。
——スカウトの仕事にはどんなイメージがありましたか?
獲得してきた選手が活躍したら楽しいだろうなというのはありました。スコアラーとかに比べると結果が分かりやすいじゃないですか。野球を見るのも元々好きでしたし、全く苦ではなかったです。ただ当時は28歳で、12球団全体の中でも一番若いくらいでしたし、周りはみんなおじいちゃんばっかりだなという印象でした。
——苑田さんからはスカウトになる上でのアドバイスとかはありましたか?
具体的なことはなかったです。ただ「身を粉にして働け」ということを言われました(笑)。
引退後、28歳から広島のスカウトを務め、東海地区を担当している 【西尾典文】
そうです。当時カープは東海地区に常駐している担当がいなくて、関東や関西の担当が出張で行って兼任している形でしたので、そこを専門でやってほしいということでした。あとは自分の母校の亜細亜大学ですね。
——スカウトになった当時はどんなことに苦労しましたか?
縁もゆかりもない土地で、土地勘も全くなかったので最初はどうしようという感じでした。ただ当時カープでコーチをされていた内田(順三)さんの息子さんが崇徳高校の先輩で、東海地区で用具メーカーの担当をされているのを知っていたので、その方に連絡していろいろなチームを一緒に回ってもらいました。あとは選手と違って自分で予定を立てて動かないといけないので、最初はそれも大変でしたね。
——最初に担当した選手は誰になりますか?
ホンダ鈴鹿の宮崎(充登/2006年希望枠)と中東(直己/2006年大学生・社会人ドラフト5巡目)です。宮崎はサイドスローから常時150キロくらいのボールを投げていて、こんなピッチャーがいるのかと驚きました。自分は1年目でよく分からなかったのですが、報告書を出していたらいつの間にか1位候補になって、最終的に希望枠でという話になりました。当時のチームはブラウン監督で、パワーピッチャーが欲しいみたいなリクエストもあったようです。
——宮崎投手はプロではあまり結果を残せませんでしたが、担当された選手で最初に主力になったのは誰になりますか?
菊池涼介(2011年2位)ですね。武蔵工大二(現・東京都市大塩尻)の当時の大輪(弘之)監督が亜細亜大出身の方で「今度面白い選手が岐阜の中京学院大に行くから」という話を聞いたのが最初です。それで大学1年生の時に練習を見に行ったのですが、当時から守備は凄かったですね。正面の打球はまだ下手くそでしたけど、横の打球は普通なら届かないようなところまで届くし、肩も強い。バッティング練習でも、糸がほつれているようなボールでも柵越えをポンポン打つし、セーフティバントをしたら一塁まで3.6秒くらいで走る。衝撃でしたね。
他球団はまだプレーが粗いしチャラチャラして見えるみたいな理由でそこまで高く評価しているところは少なかったですが、僕は上位だと思いました。この年の1位だった野村祐輔(明治大)でしたけど、「もし抽選で外したら菊池を1位で獲ってください」とまで言っていました。
——当時そこまで有名ではなかった菊池選手を推すのは勇気がいりませんでしたか?
自分の中では、亜細亜大の2学年上の井端(弘和)さん、1学年上の赤星(憲広)さんが基準としてあって、あの2人を見ていたのが大きかったです。大学時代あれくらいできたら、プロでも通用するんだという目安になりましたから。菊池は2人の大学時代と比べても全く遜色なかったので、これはいけるだろうと判断できました。