井口資仁が高校卒業でプロにならず大学進学を決めた二つの理由 小久保裕紀の背中を追いかけて日本代表になりたかった
國學院久我山と青山学院大学の共通点
実は高校2年の時、青山学院大学の河原井正雄監督(当時)が僕に興味を持ち、スカウティングに来てくださったことがありました。ただ、河原井監督は僕を見るなり「あ、これは大学には来ない」と言って、すぐに帰ってしまったそうです。後日、その理由を聞いてみると「プロに行くだろうから誘っても来るわけがないと思った」とのこと。その僕が進路としてプロではなく青山学院大学を選び、河原井監督を恩師と仰ぐようになるのですから、人生とは奇なるもの、どう転ぶか分かりません。
青山学院大学の全体練習は國學院久我山と同じく2時間ほど。それ以外の練習は選手の自主性に委ねられていました。選手の自主性や裁量に任されるというと“自由=楽”というイメージが浮かぶかもしれませんが、実はその逆。自分を律しながら、何が必要かを考えて練習するのは、なかなか難しいことです。自分で考える力があれば有意義な時間を過ごせますが、考える力がなければ何もできず無駄に時間が過ぎるだけ。何も考えなくていい分、指導者が用意したメニューをこなす方が楽なのです。
高校でも似た環境にあった僕は幸い、青山学院大学のスタイルにすんなり溶け込むことができました。一方で「やらされる野球」で育ってきた選手は、地図も持たずに見知らぬ街へ放り出されたかのように戸惑っていました。
野球に限らず、人生において自分で考える習慣を持つことは、とても重要なことだと思います。瞬時に判断しなければいけない時、重要な岐路に立たされた時、スランプに陥った時、人は自分で答えを導き出さなければならない場面にたびたび遭遇します。そんな時より良い選択ができるように、選手の自主性を育てる環境は大人=指導者が整えるべきなのでしょう。
大学では、大切な仲間たちに出会いました。1993年に硬式野球部の門を叩いた同期は僕を含めて8人。今でも連絡を取り合い、みんなで集まって食事に出掛けるほど気の置けない仲間です。そのうち、1996年のドラフト会議では清水将海(ロッテ1位)、澤崎俊和(広島東洋カープ1位)、倉野信次(ダイエー4位)、そして僕(ダイエー1位)の4人がプロ入り。高いレベルで切磋琢磨できた4年間は、選手としての成長を確実に後押ししてくれました。
環境もまた、同期の絆が深まる助けとなりました。野球部の寮では代々、4人部屋に各学年から1人ずつ入る“縦割り”システムが採用されていましたが、僕たちの入学に合わせて同学年で部屋を共有する“学年別”に変更されたのです。部屋に帰っても気兼ねなく、ざっくばらんに野球や大学の話をすることができましたし、ときにはみんなで一つの部屋に集まって「俺たちの代で頑張っていこうぜ」と盛り上がったこともあります。それぞれの存在がそれぞれにとって大きな刺激となっていました。
書籍紹介
【写真提供:KADOKAWA】
プロ野球では日本一、メジャーリーグでは世界一を経験し、ロッテ監督時代は佐々木朗希らを育てた。
輝かしい経歴の裏には、確固たる信念、明確なビジョンがあった。ユニフォームを脱いで初の著書で赤裸々に綴る。