井口資仁が高校卒業でプロにならず大学進学を決めた二つの理由 小久保裕紀の背中を追いかけて日本代表になりたかった
プロ野球では日本一、メジャーリーグでは世界一を経験し、ロッテ監督時代は佐々木朗希らを育てた。
輝かしい経歴の裏には、確固たる信念、明確なビジョンがあった。ユニフォームを脱いで初の著書で赤裸々に綴る。
井口資仁著『井口ビジョン』から、一部抜粋して公開します。
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甲子園で味わった「松井秀喜の衝撃」
【写真は共同】
4点を先行されたものの6回から反撃に転じ、2点を追う8回には本塁打とスクイズで追いついて、9回を終えて4-4の同点。第4試合だったため、延長10回を迎える時に見上げた空はすでに薄暗く、甲子園の照明が眩しく光っていたことが鮮明な記憶として残っています。試合が動いたのは、その直後でした。
10回表、2死一塁とした池田は盗塁を仕掛けてきました。捕手の二塁送球はベースカバーに入った僕の手前でショートバウンドし、外野へ抜けていったのです。すると、今度は外野からの三塁への送球がイレギュラー。ボールが転がる間に勝ち越され、初めての甲子園は終わりました。
その時は大きな悔しさが残りましたし、勝ち上がれるのなら勝ち上がりたかった。ただ、激戦区の西東京で優勝したことは誇りですし、甲子園出場は自分の現在地を知る貴重な機会にもなりました。東京や関東ではなく、日本全国に視野を広げた時、僕の実力はまだまだだと思い知らされる出来事があったのです。それが星稜高校(石川)・松井秀喜との出会いでした。
松井と僕は1974年生まれの同級生。出会いと言っても、松井は覚えていないでしょう。僕が一方的に衝撃を受けたのですから。2年生ながら超高校級の実力を持つ松井の名前はすでに全国に知れ渡るものでした。僕は「どんな選手なんだろう」と興味津々でしたが、甲子園で見たのは体格が一回りも二回りも違う大人のような高校生。スイングスピードの速さ、パワフルなスイング、バットが空気を切る音、どれをとっても桁外れで、それまで味わったことのない強烈なインパクトを受けたのです。
僕自身、東京では少し知られた存在になっていましたが、松井を見て「高校からプロに行くのはこういう選手。今の自分では勝てない」と実感。木製バットにうまく対応できる自信がなかった本音に加え、客観的な視点で自分の現在地を知った僕は、高校からプロ入りするのではなく、大学でしっかり実力をつけてから挑もうと心に決めたのです。この時に味わった“松井の衝撃”は、一つのターニングポイントとなりました。
大学進学を選んだ二つの理由
もう一つ、大学進学という決断を後押しした出来事がありました。それが3年の夏、1992年に開催されたバルセロナオリンピックです。当時、オリンピックに参加するのは社会人を中心としたアマチュア日本代表で、プロの参加は認められていませんでした。
バルセロナでは、杉浦正則さん(日本生命)、伊藤智仁さん(三菱自動車京都-ヤクルト1位)らが投手陣を牽引し、野手では大島公一さん(日本生命-近鉄バファローズ5位)、三輪隆さん(神戸製鋼-オリックス2位)らが活躍。そして、20人の代表メンバーのうち唯一の大学生が青山学院大学3年の小久保裕紀さんでした。
小久保さんは主に左翼手としてスタメン出場し、予選リーグでは2本塁打、アメリカとの3位決定戦では2安打2打点の活躍。日本の銅メダル獲得に大きく貢献しました。胸に「JAPAN」の文字が入ったユニホームを身にまとい、右の大砲として存在感を光らせる姿は本当に格好よかった。当時、小久保さんの姿に憧れた野球少年は多かったと思います。
1984年のロサンゼルスオリンピックで公開競技となった野球は、続くソウルでも公開競技として開催され、このバルセロナから正式競技となりました。すでに4年後の1996年アトランタでの開催も決まっていることを知った僕の頭の中に、ふとこんな思いがよぎりました。
「オリンピックに出場したい。大学に行けば日本代表に入れるかもしれない」
高校まで「日本代表」と名の付くチームに縁のなかった僕は、いつの日か「JAPAN」のユニホームを着てみたいと思っていました。オリンピックは社会人が出場するものと思っていたところで、大学生の小久保さんが代表入り。その勇姿を見た僕は「大学で活躍してプロ入りしよう」という目標を、「大学で活躍して4年生でオリンピックに出場し、そこからプロに入ろう」と微修正し、新たな挑戦に胸を高鳴らせたのです。