『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』

創設3期目での歓喜と“初”胴上げ 野村克也監督が少年たちに贈ったラストメッセージ

長谷川晶一
アプリ限定

【写真は共同】

 野村克也がプロ野球界で名将と呼ばれる以前、中学野球で指揮を執っていたことをどれくらいの人がご存じだろうか? そのチーム「港東ムース」はとてつもなく強く、未だ破られていない全国4連覇を果たしている。野村は中学生をどのように導いたのか? そこには、ID野球の原型ともいえる教えがあった――。『名将前夜 生涯一監督・野村克也の原点』から、一部抜粋して公開します。

秋空の下、野村克也が宙を舞う

 11月5日、東京・駒沢球場にて、関東連盟秋季大会決勝戦が行われた。

 この試合、港東ムースにとって予期せぬハプニングで幕を開けた。夏の全日本大会を制した越谷シニアのエース・田中充が試合前に貧血で倒れ、先発登板を回避したのだ。
 急遽マウンドに上がった大山武史を攻め立てた港東ムースは2回に津坂崇のスクイズで先制すると、3回にも無死満塁のチャンスを作る。ここで越谷シニアは田中を投入するものの、一死後に田篠健一がレフトに2点タイムリーを放って3対0と試合の主導権を握った。
 投げては、中1日での先発マウンドとなった藤森がこの日も危な気ないピッチングを披露する。得意のカーブを投じると越谷打線は手も足も出ない。

 こうして、港東ムースは7対2で快勝する。

 創設3期目での見事な優勝だった。全国大会ではなく、関東大会での出来事ではあったが、それでも偉業は偉業だ。それは、当時シニアリーグに加盟していたおよそ150チームの中でも、異例のスピードでの栄光だった。

 秋晴れの空の下、選手たちは喜びを爆発させている。エース・藤森と、女房役の洋平が熱い抱擁を交わす。ナインたちも口々に「やったー!」と叫んでいる。そして、ライトブルーのユニフォーム姿の野村がベンチからゆっくりと歩を進める。
 キャプテンである洋平のリードの下、野村の胴上げが始まろうとしていた。

「南海ホークスで優勝したとき、三冠王を獲ったとき、そして今日が3回目だ。どうでもいいけど落とさんでくれよ……」

 その言葉が終わらぬうちに、野村の下に集まってきた選手たちがその巨体を持ち上げた。子どもたちの手によって、指揮官は宙に舞った。野村の表情は上気していた。

「いい気持ちだ。本当にいい気持ちだ。これで心残りなく、ヤクルトに行けるよ。子どもたちに感謝したい」

 野村の言葉にあるように、監督としては1973(昭和48)年、南海の兼任監督として胴上げされて以来の歓喜の瞬間だった。その後、ヤクルトの監督に就任して3年目となる92年10月10日に野村はヤクルトをリーグ優勝に導き、甲子園球場の夜空に舞うことになる。

 NPBの監督として、それは野村にとっては二度目の快挙だったが、実はその3年前にも野村は少年たちの手によって胴上げの祝福を受けていた。
 自身にとって「専任監督」として初めての胴上げはヤクルトではなく、港東ムースだったのだ。報道陣に囲まれた野村は言う。

  • 前へ
  • 1
  • 2
  • 次へ

1/2ページ

著者プロフィール

1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『生と性が交錯する街 新宿二丁目』(角川新書)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント