本多雄一を襲った首の痛み それでも引退試合でベストパフォーマンスを出せたワケ
習慣から生まれたベストパフォーマンス
それでも、僕は野球を続ける気しかなかった。プロ野球選手は個人事業主です。チームもありますが、その前に自分があるもの。
秋になりました。二軍でも試合には出ていません。
球団側から、「どう考えている?」と声をかけてもらいました。
そこまできて、引退の文字がようやく頭をよぎります。
しかし、引退というのは、もう野球ができなくなるということ。ずっと、ケガで野球ができないストレスと戦っているのに、そんなことができるのでしょうか?小さなころからボールを握って遊んでいました。
小学校、中学、高校、社会人、そして、プロ。たくさんの人にお世話になりました。
僕の1分1秒をサポートしてくれた人がいます。親、妻、子ども……。しかも、辞めると生活は大きく変わる。不安もある。
でも、僕の野球は大きな声で全力疾走、元気を出してやるものでした。
そうなのに、打って走って、守ってということができていない。それができない選手であることは、自分の中でも許せませんでした。
痛みは頻繁に僕を襲うようになっていました。身体を労わるのは、今なのかもしれない。そう考えるようになります。
10月に入るころ、僕は引退を決めました。
ちょうどチームの順位も決まっていて、球団は引退試合の場を用意してくれました。
10月6日の西武ライオンズ戦が、その試合でした。
まともな練習はできていないのに、ちゃんと打てるかな? 強い打球が来たら、捕れるだろうか?
さすがに不安でした。でも、何度も何度も繰り返して身につけたものは、身体に沁み込んでいました。勝手に身体が動きます。まさに習慣。
2打席目はフォアボールを選べ、一塁から、会心のスタートが切れました。
結果的にデッドボールになったので盗塁は記録されませんでしたが、ベストパフォーマンスをファンの方々の前で披露できました。
あのスタートは、習慣が生んでくれた僕の宝だと思っています。
342まで積み上げた盗塁数は僕の自信のひとつだったのです。
5打席も打たせてもらい、スリーベースとツーベースも打ち、守備もこなせた。
僕がやりたい元気な野球ができました。僕らしさをファンの方々に見てもらうことができて、うれしかったのです。
引退セレモニーもさせていただきました。
でも、引退のあいさつの中、小さなころから、ボールを握って成長してきたことがフラッシュバックします。両親に感謝し、妻に語りかけようとしたとき、もう、ムリだと思いました。
苦しんでいる姿ばかりを見せてしまって悪いことをしたな、と思っていました。だから、ありがとう、と言いたいのに、涙が先に出てきます。
花束を持ってふたりの娘が、ちょこちょこと歩いてくるのが見えました。もう、どうにもなりません。
涙がボタボタとこぼれて、何も見えませんでした。
プロ在籍13年。1313試合出場、通算打率.276、通算安打1289本、通算本塁打15本、通算盗塁342、通算犠打243。盗塁王2回。ゴールデングラブ賞2回。ベストナイン1回。
それが僕の残したプロ野球での数字です。
よくやったのかどうかは、人が決めること。
でも、全力でやりました。それがあったからこそ、多くの試合でスタメンに選ばれ、数字を重ねることができました。それはたしかなこと。
評価は自分ではなく相手がするものです。ただし、自分が納得できるものを目標としておくことは大事です。そうありたいという気持ちが原動力になり、習慣を身につけ、結果が生まれる。野球選手ならば
それが数字であり、僕はこの数字に誇りを持っています。