本多雄一を襲った首の痛み それでも引退試合でベストパフォーマンスを出せたワケ

本多雄一

習慣から生まれたベストパフォーマンス

 現役最後となった2018年は、試合に出ると痛みが出て、また二軍で調整の繰り返しになってしまいます。

 それでも、僕は野球を続ける気しかなかった。プロ野球選手は個人事業主です。チームもありますが、その前に自分があるもの。

 秋になりました。二軍でも試合には出ていません。

 球団側から、「どう考えている?」と声をかけてもらいました。

 そこまできて、引退の文字がようやく頭をよぎります。

 しかし、引退というのは、もう野球ができなくなるということ。ずっと、ケガで野球ができないストレスと戦っているのに、そんなことができるのでしょうか?小さなころからボールを握って遊んでいました。

 小学校、中学、高校、社会人、そして、プロ。たくさんの人にお世話になりました。

 僕の1分1秒をサポートしてくれた人がいます。親、妻、子ども……。しかも、辞めると生活は大きく変わる。不安もある。

 でも、僕の野球は大きな声で全力疾走、元気を出してやるものでした。

 そうなのに、打って走って、守ってということができていない。それができない選手であることは、自分の中でも許せませんでした。

 痛みは頻繁に僕を襲うようになっていました。身体を労わるのは、今なのかもしれない。そう考えるようになります。

 10月に入るころ、僕は引退を決めました。

 ちょうどチームの順位も決まっていて、球団は引退試合の場を用意してくれました。

 10月6日の西武ライオンズ戦が、その試合でした。

 まともな練習はできていないのに、ちゃんと打てるかな? 強い打球が来たら、捕れるだろうか?

 さすがに不安でした。でも、何度も何度も繰り返して身につけたものは、身体に沁み込んでいました。勝手に身体が動きます。まさに習慣。

 2打席目はフォアボールを選べ、一塁から、会心のスタートが切れました。

 結果的にデッドボールになったので盗塁は記録されませんでしたが、ベストパフォーマンスをファンの方々の前で披露できました。

 あのスタートは、習慣が生んでくれた僕の宝だと思っています。

 342まで積み上げた盗塁数は僕の自信のひとつだったのです。

 5打席も打たせてもらい、スリーベースとツーベースも打ち、守備もこなせた。

 僕がやりたい元気な野球ができました。僕らしさをファンの方々に見てもらうことができて、うれしかったのです。

 引退セレモニーもさせていただきました。

 でも、引退のあいさつの中、小さなころから、ボールを握って成長してきたことがフラッシュバックします。両親に感謝し、妻に語りかけようとしたとき、もう、ムリだと思いました。

 苦しんでいる姿ばかりを見せてしまって悪いことをしたな、と思っていました。だから、ありがとう、と言いたいのに、涙が先に出てきます。

 花束を持ってふたりの娘が、ちょこちょこと歩いてくるのが見えました。もう、どうにもなりません。

 涙がボタボタとこぼれて、何も見えませんでした。

 プロ在籍13年。1313試合出場、通算打率.276、通算安打1289本、通算本塁打15本、通算盗塁342、通算犠打243。盗塁王2回。ゴールデングラブ賞2回。ベストナイン1回。

 それが僕の残したプロ野球での数字です。

 よくやったのかどうかは、人が決めること。

 でも、全力でやりました。それがあったからこそ、多くの試合でスタメンに選ばれ、数字を重ねることができました。それはたしかなこと。

 評価は自分ではなく相手がするものです。ただし、自分が納得できるものを目標としておくことは大事です。そうありたいという気持ちが原動力になり、習慣を身につけ、結果が生まれる。野球選手ならば
それが数字であり、僕はこの数字に誇りを持っています。

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著者プロフィール

福岡ソフトバンクホークス⼆軍内野守備⾛塁コーチ。福岡県大野城市出身。鹿児島実業-三菱重工名古屋。 2005年より福岡ソフトバンクの黄金時代を支えたリードオフマン。 多くのファンに惜しまれながら2018年に現役を引退し、2019年より一軍内野守備走塁コーチ、現在は⼆軍内野守備⾛塁コーチを務める。 2012年より嬉野観光大使としても活躍している。 現役時代の主なタイトル ・盗塁王2回 ・ベストナイン1回 ・ゴールデングラブ賞2回

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