連載:元WBC戦士は語る―侍ジャパン優勝への提言―

福留孝介「考えるよりも、感覚を大切に」 侍ジャパンの後輩たちに伝えたいWBCの心構え

小西亮(Full-Count)

2度のWBC優勝に貢献した福留孝介が、今年、世界一決定戦の舞台に臨む後輩たちに伝えたいこととは? 【写真は共同】

 3月の「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」は、第5回大会を迎える。2006年に第1回が開催された世界一決定戦。誰もが手探りの中で日本代表「侍ジャパン」は初代王者となり、様子見だった列島は一気に熱狂した。大きな期待を背負った2009年の第2回大会も激闘を制して連覇。日本野球を世界に見せつけた。
 昨季限りで現役を引退した福留孝介氏は、2度の歓喜に貢献したひとり。五輪とも違う、独特な国際大会での頂点は「別格ですよね」と振り返る。強烈な重圧とも向き合うことになる最高峰の舞台。短期決戦ならではの心構えや戦い方を、“先人”として伝える。

「訳もわからずに世界一になった」第1回大会

帰国して翌日に自身の体に異変が。福留孝介(写真右)は当時の状況を振り返る 【写真は共同】

 色あせることのない、連覇の記憶。ただ、その中身は決して一筋縄ではいかなかった。特に第1回大会で、福留氏は結果が出ずに苦戦。準決勝の韓国戦では代打で決勝2ランを放って注目を浴びたが、“打てない自分”との戦いは想像を絶していた。帰国後に起きた異変を、苦笑いしながら振り返る。

「帰ってきた次の日に、体が先に悲鳴を上げました。逆流性胃炎で病院に行きましたからね。激痛で寝られなくて。人生で初めて胃カメラを飲みましたよ」

 海の物とも山の物ともつかなかった第1回大会は「訳もわからず世界一って感じでした」。米国主導で創設され、まだ日本国内の機運は醸成されていなかった。「この大会がどんなものなのかも、位置付けもわからなかった」。侍ジャパンは第2ラウンドから米国へ。日本のファンの注目も届かぬ状況で、絶望的な状況から奇跡的にベスト4に進出。準決勝で韓国を撃破し、決勝もキューバに打ち勝って初代王者となった。

「日本に帰ってから記者会見をやることになったと言われて、そんなジャケットとかちゃんとした服は持ってきてないってなって(笑)。慌ててモールに服を買いに行きましたからね」

WBCと五輪とは別物の感覚だった

2009年のWBCにメジャーリーガーとして臨んだ福留孝介。2006年との心境の変化は? 【写真は共同】

 一気に国民の関心を高め、迎えた3年後の2009年。「できれば出たくなかったですよ」と冗談めかして言うが、誰もが経験できるわけではない貴重な時間に違いなかった。「日本代表のメンバーとして出られることは誇りでしかないですし、自分がプレーヤーとして一線でいられている評価でもある」。当時はカブスに移籍して2年目。「久しぶりに日本でプレーできるというのもモチベーションでした」と思い返す。

 韓国との決勝でイチローが延長10回に放った決勝タイムリーは、象徴的なシーンとして語られる。メジャーリーガーとして臨んだ福留氏は、その偉大な背番号51とともに野手陣を引っ張っていく一員だった。

 練習の合間にチームメートから相手投手について問われたイチローは、自らの経験を踏まえて特徴を説明する。その後「なあ孝介、こんな感じだよね?」と話を振られることもしばしば。「『そうですね、そういう感じだと思います。こういうこともあるかもしれません』みたいな話はしていましたね」と当時を思い返す。

 2013年の第3回大会、2017年の第4回大会がいずれもベスト4止まりだっただけに、過去の連覇はより輝いて映る。福留氏の24年間のプロ野球人生でも宝物のような存在で「世界一という称号が手に入るのは、ちょっと別格ですよね」と噛み締める。アマチュア時代の1996年、中日時代の2004年に五輪を2度経験しているが「五輪は五輪で別物。なんか違う感覚なんですよね」と言う。

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著者プロフィール

1984年、福岡県出身。法大卒業後、中日新聞・中日スポーツでは、主に中日ドラゴンズやアマチュア野球などを担当。その後、LINE NEWSで編集者を務め、独自記事も制作。現在はFull-Count編集部に所属。同メディアはMLBやNPBから侍ジャパン、アマ野球、少年野球、女子野球まで幅広く野球の魅力を伝える野球専門のニュース&コラムサイト

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