連載:元WBC戦士は語る―侍ジャパン優勝への提言―

福留孝介が語るWBC初代Vの裏にあった献身 「次のボール打っちゃえ」無心の代打決勝弾

小西亮(Full-Count)

2006年WBC準決勝の韓国戦で福留孝介が放った一発に日本中が歓喜した。このホームランが生まれた背景とは 【写真は共同】

 2球見送り、やけに冷静に思った。「あ、打てるかもしれない」。直後、高々と舞い上がった打球が右翼スタンドに飛び込んだ。2006年に初めて開催された野球世界一決定戦「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」。準決勝の韓国戦で、7回に代打に立った福留孝介は、一振りで役目を果たした。

 主軸として期待されながら不振を極め、初めてベンチスタートで迎えた一戦だった。ダイヤモンドを一周し、大盛り上がりのベンチに迎えられたことは「あまりおぼえていないんですよね」。それだけ興奮状態だった。侍ジャパンを初代王者へと導いていった快心の一発は、17年たった今も多くの人の脳裏に刻まれている。

決意を持って代表入りするが不振に「腹が立った」

当時の王貞治監督からオファーが来た時のことを振り返る福留孝介 【スリーライト】

 悩んだ末に背負った日の丸だった。中日の主軸として球界を代表する打者となっていた当時、当然のように日本代表へのオファーが届いたが、辞退を申し出ていた。2005年のシーズン終了後から打撃フォームの改造に着手。「自分の状態をベストに持っていくことができない。迷惑をかけたくない」との思いが真っ先にあった。

 WBCだけでなく、その後のシーズンでの戦いもある。まずはバッティングに自らの意識を向けていると、王貞治監督から再び電話がかかってきた。「なんとか頼む」。世界のホームラン王からの誘いを2度も断るわけにはいかない。「結果は出ないかもしれませんが、なんとかお力になれるように頑張ります」と腹を括った。

 蓋を開けてみると、当然ともいえる現実を突きつけられた。第1ラウンドでの中国との初戦でいきなり1号ソロを放ったが「あんなの、たまたま」。2戦目から第2ラウンド終了までの計5試合で15打数1安打。「自分に腹が立っていましたね。くそーって思いながらやっていました」。

 練習では試行錯誤を繰り返し、とにかく藁にもすがる思いだった。「一瞬でもいいから状態が上がってくれねーかなと」。首脳陣だけでなく、周囲の選手たちにも気にかけてもらった。出場機会の少なかった谷繁元信捕手(中日)や宮本慎也内野手(ヤクルト)らベテランは、率先して練習の手伝いに回り、助言をくれる。所属チームでは主力を張る選手たちが、自らの役割を考え、同じ方向を向いている。そんな姿を見ると「『打てないからもういいっすよ』とは、口が裂けても言えなかった」。苦しみと向き合い続けることが、せめてものファイティングポーズだった。

 侍ジャパンは米国での第2ラウンドで2敗を喫し、準決勝進出は絶望的と言われていた。他力本願の状況で、チームはカリフォルニア州サンディエゴに移動して練習。福留氏の思いは、少しずつ“帰国後”に向かっていた。

「これから日本に帰ってシーズンの準備をしないといけないということも頭にはよぎっていました。僕は結果が出ていなかったので、なおさら切り替えにかかっていましたね(苦笑)。もういいやって、吹っ切って練習していました」

 今思えば、これが千金弾のきっかけだった。いつもの調整とは違い、外野で走り続けてみっちり汗をかいた。悩みの底にいた打撃についても考えることなく、無心でバットを振った。心身ともにデトックスしたその夜、米国がまさかの敗戦を喫し、失点率わずか0.01差で準決勝進出が決まった。

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著者プロフィール

1984年、福岡県出身。法大卒業後、中日新聞・中日スポーツでは、主に中日ドラゴンズやアマチュア野球などを担当。その後、LINE NEWSで編集者を務め、独自記事も制作。現在はFull-Count編集部に所属。同メディアはMLBやNPBから侍ジャパン、アマ野球、少年野球、女子野球まで幅広く野球の魅力を伝える野球専門のニュース&コラムサイト

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